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上原輝男記念会 上原先生著書からの語録

「上原輝男記念会 上原先生語録集」では元玉川大学教授、上原輝男(文学博士 専攻 心意伝承学)の語録を紹介しています。 非常に多岐に渡っていますが、先生が生涯をかけて探求された、この風土、歴史、文化に根付いた<日本人>ということですべては繋がっています。 多様な価値観によってふだんの生活も国際社会での関りも難しさをます現代社会において、先生の語録は大きなヒントになると考えています。

日本人の二元論 両義性が感覚の基本 

たまたま昨日、山梨大学名誉教授であり、上原輝男記念会の専門委員でもある須貝千里先生と語り合える時間に恵まれました。
その中で盛んに先生から出ていたのが「二進法のもともとの発想」に関してでした。

そのこととつながりの深い文があったので紹介します
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「心意伝承の研究 芸能編」より
昭和62年1月16日 桜楓社

「うそはまことの骨、まことはうその皮」と喝破できむ江戸時代の感性は失われていなかったのかもしれぬ。 と実、陰と陽、表と裏、内と外、聖と俗、貴と賤、公と私、等々日本式の二元論は、何も、演劇改良の時期に思い ついたわけではない。もともと根強く日本人の心理深層に巣喰っていたものといわねばならない。たまたま、語句的言い慣わしに従って先の二元名辞を例示したが、これを次のように整理し直してみると、

虚ー実
| |
陰ー陽
| |
裏ー表
| |
内ー外
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俗ー聖
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賤ー貴
| |
私ー公

の如くなり、その共通対応に意識の整合性を見出すことが容易である。

・・・・・・ハレの日の「客人 (まれびと)」がケの日には「乞食人(ほかいびと)」となる両義性が日本人の感覚には流れているといわねばならない。 簡単にいうと、歓迎され愛される神は、また忌避され追われる鬼である両義性を感覚の基本として具有していると との追求がしてみたいのである。(P230)


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デジタル思考・・・「0と1」からなる二進法・・・は現代人にはどのように受け止められているのでしょう。
きちんとした調査をしたわけではないですが、
「0と1の 二つしかない」 ・・・目に見える存在だけが存在 みえない世界などない かんがえたくない
「0か1か の二つにひとつ」・・・両極端な発想で、どちらかになる。極振りで間がない
という傾向が日々強まっているのではないでしょうか。

その一例が、好きな漫画でも音楽でもアニメでも「流しよみ」「早送り再生」をする傾向なのだと思います。
「その世界を味わい尽くす」のでなないんですよね。核心と思われる部分を知る事ができればいい。
それ以外は関係ないものとして切り捨てる、という発想です。

「抽象化」といえば聞こえはいいですが、本来「抽象化」は「具象化」とワンセットであり、一度あらゆる部分を切り捨てたからこそ、逆により幅広い具体的なこととつなげていける・・・「普遍化」につながっていくわけです。

それを学ぶというのが、義務教育段階での「数学」の大切な基本姿勢なのだと思います。
世界観の広げ方そのもの・・・ですから、数学は人間理解・古典や文革の世界を深く理解し、共振・共鳴していく上でも大切な素養になると考えているのです。

上原先生が中学年から論理思考、というのも単に理数教科が得意になるため、という現実的な利益から考えたわけではありません。個々人の抱いているイメージ・思い込み・まとわりついている感情 などから一度切り離して抽象化することで、爆発的に多くのこととのつながりがみえてくる・・・折口先生の大切にされた「類化性能」です。(みかけ上異なるものの裏側に関連を見出す能力のこと)


昨日、須貝先生が強調されていたのは、二進法は「0と1だけという世界観」ではなく「0と1で、あらゆる世界を表すことができる」さらには「形としてあらわせたものの、さらに向こう側には形にならない世界がある」という発想がもともとはあったんだということです。

それが仏教的にいえば「虚空の世界」。数学的にいえば「虚数」の世界ですね。どちらにも「虚」の字が入っているのが興味深いところです。



先の著書のことを、子供向けには

「あれか これか」ではなく「あれも これも」という発想をとらせるということだよ

というのも上原先生が月例会で話されていました。私の教室の全面にはこの言葉を掲示していました。

西洋的な合理的思考にそまった現代人の常識からすれば「相反する・矛盾するものが同時に存在」というのは奇異に感じるでしょうね。「どっちかでしょ、両方同時なんてありえなくね?」と。

でもそれを平気にやって昔から生活していたのが日本人の特徴です。
これは、それがいいか悪いかではなく、それが日本人の心の奥底にしみついている発想の仕方であり、生き方なんです。

それが表層的な部分だけは、急激に「矛盾は同時にはありえない。どちらかをはっきりさせなければならない」となってきたわけです。
「あいまいさは日本人の悪いクセだ」
「そんなわけのわからないことを言っていたら、西洋人と対等にやりとりができない。」

その結果「0と1」の間には無限の段階があるのに・・・二進法ではすべての数を表せるという広がりをもつのに・・・極端に抽象化しているからこそ、みえない世界も含めてあらゆる世界を内包しているのに・・・・それらすべてを切り捨ててしまっているのです。

だから
人の心についても表層的にしか考えない、その裏側を感じとれない、感じとろうともしない。
地位やお金のように目に見えるような物質的なものにしか価値を見いだせない
卑怯なろうなそんなのは気にしない 自分だけが得をするという結果を出せればいいんだ
・・・・・
そんなことで、他人を潰しながら、実は自分も他人から潰されるという生活を送っているんですよね。

「あれかこれか」ですから生き残るのはどちらか一方だけ
「あれももれも」なら共存共栄

今回は「虚」の部分には十分ふれられませんでしたが、本当はそのところこそが人間にとって大切な部分です。

*個人ブログ「たぬきの館」での今朝の上原先生の言葉は「絵本」に関してです。
仏の真理はことばや文字で表すことができない、という真言密教の観点などから絵本について語っています。
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12845588308.html
あわせてお読みください。
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「馬の研究」からの広がり

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日本人の心をほどく かぶき十話 より  
平成7年5月13月 オリジン社


いまは一生懸命になって馬のことばっかり調べている。でも、私は馬が専門だと思ってはいないのである。馬と日本人が一緒になって生活していた時代があるはずだと。日本人騎馬民族説さえあるのに、その日本人がなぜ馬を捨てた。その日本人がなぜこんなふうに変わり得るのかということが知りたい。それを知りたい、知りたいというものの、同時に、わが身体の中で何が響いているのか、どこに私を連れていくのかということが、やっぱりこの年になってもなおかつ忘れられないのである。
(中略)
 いままでは自分たちが学んできた知識体系を使ってやってきたけれども、もはやそれだけを武器としていたら、何をやっていいのか分からなくなってしまったというのが今日ではないかと言いたいのである。(P172)

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別の原稿でも書いたことがあるのですが、先生の著書の分かりにくいところは、歌舞伎や民俗学などでとりあげた話題に対して、それがどんなこととつながるのか、をほとんど示さないところにあります。
だから読み手は「だから何なの?さっぱりわからない」となってしまう。関係のない話をされているような気になってしまって、本を閉じてしまうんですよね。

*というより、本を開こうとも思ってもらえない。昨日も書いたことですが、この「かぶき十話」にしても「日本人の心をほどく」とタイトルにあっても、やっぱり「かぶきの本?自分には関係ない」と手に取ってもらえない。
ましてや、現代のようにネット検索で本をさがす際には、心に関心はあっても、そうした本を探すのに「かぶき」でキーワード検索する人なんていませんよね。


それでも先生が「こういうこととつながる」と意図的に明記しなかったのは、おそらく明記したとたんに、それが「縛り」になってしまう、それを恐れていたからなのだと思います。「ああ、そういうこととつながるのね」で終わりにされてしまう。
本当はそれ以上、様々なことにつながるのに、分かった気になってしまうことで、いろんな可能性がすべて切り捨てられてしまう。

先生がなくなってずいぶんたちますが、世の中の発想は可能性を狭める方向にどんどん進んでいます。
ますます先生の著書は受け付けられなくなっていくでしょうね。



そういうことからすると、重要なのは後半にある「いままでは自分たちが学んできた知識体系を使ってやってきた」以降の部分ではないかと考えます。

どうしても「知識体系」というと一般には「西洋流の学問体系」・・・分かりやすくいえば「因果関係がすっきりと明確」に整理されているもの、が思いうかべられてしまうのではないでしょうか。

その影響を受けているのでしょう、子ども達も
「この勉強をやっても大人だってそれを使って生活してるの?」
「これが分かったから、できるようになったからって、それが何なの?
何の役にもたたないじゃない」

知的好奇心からの質問であればまだいいのですが、単に勉強なんかしたくないという気持ちの表れである場合も多いですよね。そして改めてこんな風に聞かれると先生も親も答えに困ってしまう。
苦しまぎれに「つべこべいわずにやれ。そうでないと言い学校、いい仕事につけないぞ」というのが関の山。

これでは「学び」は目的ではなくて、完全に手段です。
まあ、実態として子ども達が学ばされているのは中身はカラッポでもいいからとにかく点数を少しでもあげること、というのが少なくない。大人たちが評価されるための道具になってしまっているのですから、子ども達にこんなツッコミをされてもきちんとした姿勢を示せないのは当然なのかもです。


上原先生の著書を読む時に、直接話題になっていることに限定しない というのを繰り返し述べているのも、先生の知識体系の発想が現代人の常識とは全く違うからです。

それは、特に江戸時代あたりまでは、江戸庶民なども普通にやっていた「知識体系」の作り方。
「〇〇 ならば 〇〇」という直線的な因果関係でとらえないんですよね。
様々な方向に立体的にネットワークが広がり、手を結んでいる。だから「馬」からみられた日本人の発想が、馬とは関係のない様々な分野とつながっていくわけです。

それは人間の大脳の中のネットワークとも似ているかもしれません。本当に優秀な人間になっていくというのは、どれだけ複雑なネットワークが構築できるかとも言い換えられるそうですから。

だから学習指導要領だって、「教科内容」を学んだらそこで終わり、という形はとっていないわけです。教科内容はあくまでも「教材」。その会得が最終目標ではない。最終目標は人間の成長そのものに寄与していくことです。

それが、テスト対策が目的になってしまっているから、それ以上の広がりを学校も扱わないし、子ども達も気にしない。テストが終ればサッサと忘れる。


*もちろんそうでない、まっとうな教育をしようという心ある先生もたくさんいらっしゃいます。
ただ、そういう先生方がふくらみをもたせる授業をしようとすると、「そんな暇があったらドリルをやらせろ」というようなクレームが親達からくるんですよね。子どもからも「先生、それってテストにでるの?でないならやらない」っていう声がでるようになってきてしまっています。


「すぐ役に立つものは、すぐ役に立たなくなる。」という有名な言葉があります。
大学などで専門以外の「教養課程」がおこあれているのも、今の自分と「関係ある」ということばかりでは、多様な社会に対応していけない、真に自分の力を伸ばせない、ということにあるのだと思います。
「関係ない」と思っていたことが、数十年後に自分の救いになるなんていうことを還暦すぎた私も何度も経験しています。

上原先生もそうですが、国語教育で感情やイメージを非常に重視していた一方で、それらを豊かにするためにも中学年以降は「論理思考」「数理思考」をしっかりと扱うというのを強調されていました。

いわゆる「理系的素養」「文系的素養」すべてが統合され同時に働いていくのが人間ということです。



☆今回は詳しくふれませんでしたが、「馬」と「日本人」ということの一つの表われが、最近大きな話題になった、アニメ&ゲームの「ウマ娘プリティダービー」です。競走馬をモチーフにしたウマ娘と呼ばれる、人間とはちょっと違った存在の少女達を描いています。

このアニメ、その設定から逆に熱心な競馬ファンの方々の多くからそっぽを向かれてたいんですよね。
視聴してみた競馬ファンの方々からもボロクソな意見が多かったです。

面白いのは競走馬に詳しくない人達の方が「競馬の知識」「競馬界の常識」等々の縛りがない分、自分の内なる感覚に自然に身き合ってみることができていたんだと思います。それで評判があがり、あとから熱心な競馬ファンの方々も二様の深さを再確認し、人気が急上昇。その後出たゲームは社会現象とまでいわれるようになりました。

これも背景には、日本人に深く刻まれていた「馬」に対しての意識がはたらいていたのだと思います。
上原先生が生きていたら、ウマ娘についてどんな発言をしたんだろうな・・・とついつい妄想してしまいます。

「日本人の心の偏向」を探る

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日本人の心をほどく かぶき十話 より  
平成7年5月13月 オリジン社

歌舞伎は日本人の心の偏向
 なぜ私が歌舞伎を取り上げるかというと、能(謡曲)よりも歌舞伎の方が知識人がつくっていないという理由からである。庶民がつくったものであるから、理屈があってつくっているわけではない。つまり、偏向がまま、偏りのまま、好きな放題につくってきたということである。だから、学問的に処理する場合、一番自然な形でいい材料があるというふうに考えている。   p13

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私(駿煌会主宰 HN 虚空)がしばしば引用している言葉です。

歌舞伎の書物ではありますが、「歌舞伎解説」が目的ではないということです。
解明しようとしているのは「日本人の心の偏向」・・・日本人の特徴です。

ですから「歌舞伎の話なのね」「歌舞伎?自分には関係ない」という姿勢では、最も肝心な部分が伝わらない。
私が常々もったいないと思っているのは、この「かぶき十話」は様々な人達にとって関りの深いことが満載なのに、「かぶきの本」ということだけで、一般の方々には手にもとってもらえない、仮に手をとって頂けても、先のような意識で、みなさんとは切り離されて読まれてしまう、ということです。


私はこの歌舞伎を現代に素直に当てはめると「漫画」「アニメ」「(ストーリーものの)ゲーム」などになるだろうという発想で読んでいます。これらのものを通して、上原先生の追い続けていた<日本人の根底にあるもの>のが垣間見られるのではないか、ということです。

実際に駿煌会の若者たちや、家庭教師での中高生、大学生、斜偉人の人達と漫画やアニメなどの話になることが多いのですが、それらの背景にある日本人の偏向性に対して強い興味を抱いてくれる方々は多いです。

国語の文学教材や古典などとの接点、また私の場合は、駿煌会で数学が専門のHN諷虹君などと「理数」の話と「アニメ」の話と「上原先生の説くに古来からの日本人の心」はとっても相性がいいんですよね。

数学的な論理の世界も、物理学などの自然科学も、根底にあるのは「世の中の真理」の探究。
それを言葉で行えば「心意伝承」「集合的無意識」となり
数式・図式で行えば「数学」「自然科学」になるということですから。

さらにいえば、上原先生は「論理」と「感情・イメージ」は別々のものとはとらえていません。
人間の中では密接に関わり合っているものどうしだと。

そのせめぎあいが顕著に表面化し、子ども達の日常を最新の注意をもって見守らなければならないのが小学校の中学年・・・特に4年生あたりからです。

心やイメージは個人単位だけではなく、民族単位でも偏り「偏向性」がある。
その偏りを積極的に活かしつつ、社会のなかでみんなが共存共栄していけるか・・・そうした姿も歌舞伎の向こう側に垣間見られるというだけではありません。

歌舞伎が「型」を重視するということにおいて、どうして「型」(様式)が芝居という感情・イメージの世界とつながるのかということの解明は、数学・理数といういわゆる理系分野の視点もいれながら、文系分野も考えるということそのものだと、私はとらえています。

この発想は、教師であれば「心に響く授業」を実践するための重要なヒントとなります。
常識の枠にとらわれなければ、見かけ上はまるで関係なさそうな分野のことが、様々な分野と響き合い、子ども達の中にネットワークを形成していきます。



そうした教育の段階がまさに小学校の先生の役割なんだと上原先生は主張している。
だから「学級担任制」が大切だ・・・という話になっていくわけです。
一人の子ども達が各教科や分野、そして娯楽に対してどのように響いているかを総合的に把握できるのが学級担任。何もそれぞれの分野の専門家である必要はないんです。むしろ専門がはっきりしているほど垣根をつくることを働きかけてしまう危険もありますから。

小学校の先生は一人一人の子ども達の「まるごと全体」を把握し、その中で次のステップに進めそうな分野、つながりを見出せそうな分野をみつけ、そこに適切な刺激を与え紗絵すればいいんです。

そうしたら勝手に子ども達は伸びていくし、そういった土台を小学校段階で整えてもらえれば、中学生以降の知的学習も各教科を統合した形で結び付けながら伸びていくことが期待できます。


「たぬきの館」の方でも書いたことですが先生が「テレビ作家」とか、あるいは「歌舞伎」を話題にして書いている文章でも、そのような枠にとらわれて読んだら、それっきりなんですよね。

先生の言葉にふれるコツは、見た目の言葉にとらわれないで、みなさんの中でどんどん他の分野との接点を見いだしあてはめてみる、
上原先生が説いているのは上原個人の思想ではありません。
日本人(人間)の根源の研究ですから誰にでも無意識の中にあることです。

ですから、「人々の心に深く響いて欲しい」という願いをもって創作活動をされている方々、あるいは商品開発などの経済活動をされている方々、教育に限らず福祉分野などで人と関わる方々・・・・子育てをしている親御さん達・・・・先生の説かれている内容は、全ての人達にとって、大いに参考になることの宝庫です。


参考)先の文に先立ち、この著書の基本姿勢について、線背はこのように書いています。
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日本人の心の仕組みと整えをほどく
 この本の角書に"日本人の心をほどく"とつけたところがミソで、最初の段階ではもっと丁寧に「日本人の心の仕組みと整えをほどくかぶき十話」と、こういうデーマを考えた。・・・・・
日本人の心は、どんなふうに仕組まれているのだろうか、あるいは整えられているんだろうかという問題を考えてみたいということである。

 歌舞伎の解説・ガイドブックの類はたくさん出版されている。また、ここでそれを学問的に歌舞伎 の成立史だとか、あるいは歌舞伎の芸の説明をすることは省略する。

歌舞伎の成立を取り扱うことに よって日本人の心をほどいてみようという、そういう開き直りのつもりもないが、ごく自然な形で、 日本人の心がどんなふうにつくられてきているのかを問うてみたいと思っている。だから、先年まで 「心の民俗学」というような名で呼ぼうとしたことがあった。
p10

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本日更新のブログ「たぬきの館」
上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー9 「テレビ作家の教育力」
もあわせてご覧ください。
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12845368943.html

「教え は 作用の感染」

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藝談の研究 心意伝承考  (昭和47年 早稲田大学出版部)

・折口先生は、教育は感染作用だと言われたことがあるが(注)、それは教育の定義というよりも、教育という人間行為を、人間生命の不連続の連続という人間関係の中で把えた、またそうした人間関係を関係づけしめる人間本性に深く根差した見解であったと思う。・・・・・

”教え”は、解答として求められはしなくて、求める者に感染(うつり)感応する働き(作用)を言っている。・・・・教わろうとすることは、感染・感応を期して受けようとしているのである。感染作用が起きたとき、伝わったのであり、またそうあるべく伝授するのであって、ものを伝授しようとするのではない。

注)折口信夫全集第十巻「歌及び歌物語」八ふりの項参照 

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なるべく分かりやすい部分んを選んで抜粋しましたが、この「藝談の研究」は難解である事の多い先生の著書の中でも最も難解と言われています。漢字も敢えて旧漢字が使われていますし、言い回しも難しい。

なので、現代にとっては身近な「テスト対策教育」と関連させて述べたいと思います。

現代の教育は、ここで述べられているのとは真逆になっていることが多いです。
模範とされる「解答」が示され、それを「暗記」させられる。「ものの伝授」のみです。
だから伝授された内容とちょっとでもずれていると、もうそれを活かせない。
俗にいう「応用力がない」「頭が固い」という子どもを事実上育てています。

でもそんな教育法が「無駄のない合理的な教育法」とされているわけです。
習った通りの問題ばかりが多い小学校のペーパーテストならそれですぐに100点が狙えるから勉強のできる子になった、と大人は安心します。

中学校になる頃にはかなり怪しくなる。

*もっとも中学校の先生によっては、親や上から指導力を疑われる等々の理由で、問題集やプリントとほとんど同じ問題を出す方も少なからずいらしゃるんですよね。中3であっても教科書の章末問題と全く同じ問題を出題されている方もありました。そんな学校の生徒を家庭教師で担当したことがあります。
担当するようになってすぐにあった期末テストの前日、数学で全く内容を理解していなかったので説明しようとしたら「そんなのいいから、答えだけ教えて。それを覚えるから」と。
テスト前日ということもあったので、「本当はこんなやりかたは人間力につながらないからね」と伝えつつも、仕方なく私が章末問を解いて紙に書き渡しました。

結果は95点くらいだったと思います。数字を覚え間違いして一つ間違えてしまったと。
学年の数学の平均点は90点以上でした。そりゃ当然ですよね。

でも中学3年生以上になると入試に向けての模擬テストなどが毎月行われる学校もあります。
そうすると完全のお手上げなんですよね。学校のテストでは高得点をとっていても、事前に問題を知らされていない学力テストなどでは平均を大きく下回る生徒が続出です。

高校になると試験範囲が広く、内容も複雑になるので、全教科を力づくの暗記で乗り越えるのは至難の業。それでも覚えて学校のテストは全教科高得点をとる子はいます。でも心身はボロボロになっていく・・・・
逆に幼少期から頭がちゃんと使えるように成長してきた子は、それほど勉強時間をとっていなくても、同じような点、あるいはもっと上の点がとれるんですよね。

初等教育段階などはまさに「もの(知識)の伝授」ではなく「作用(ものの見方・考え方等々)」の勉強への姿勢、そしてそれに伴い「好奇心・学ぶ楽しさ・喜び」を伝授することが重要となっていきます。

さらにいえば、すべての教科が専門ではない小学校の先生こそ、苦手、嫌いな教科(分野)に対する良き向かいあい方を授業で示すことができます。
「先生でも苦手な教科とか嫌いな教科があるんだ。それでも先生は面白がってるみたいだな」という具合。子ども達と一緒になって学ぶ楽しさを味わう・・・まさに子弟同行ですよね。


「小学校でも教科担任制を」という声は以前からもあります。
それは「知識というモノの伝授が教育」という発想です。

上原先生は小学校は絶対に学級担任制であるべきだと主張されていました。
その理由の一つがこの「作用(姿勢)」の伝授が小学校の先生の役割だからです。
(もう一つの理由についてはまた別の機会に)



私が学校に勤めていたころ「知識偏重教育」への反省から、真の学力・生きた学力の育成のために「関心・意欲・態度」を育てることが盛んに言われました。

せっかくこういうことが強調された時代もあったのに・・・・「早い安い」式の教育によっての合理化で、学ぶ際の子ども達の「あれこれの中で遊ぶ」がムダとされてしまったんですね。

*別ブログ「たぬきの館」
上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー8 「あれこれ」
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12845215979.html

も是非あわせてご覧ください。

「死と再生 ~生命の復活~」

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感情教育論  より 
昭和58年 学陽書房

折口学では、「一家系を先祖以来一人格と見て、其が常に休息の後また出て来る」という。つまり、「死は死でなく、生のための静止期間」をいい、生は蘇生であって、新生ではない。ということは、神意神霊(魂)の憑りつくことによって生命が復活するのである。日本語における「若返る」という語も、これで初めて納得がゆく。
("若"の思想――-序にかえて  から)

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上原先生は折口信夫先生の晩年の弟子の一人でした。
この「一家系一人格」というのは、魂は生き通し・・・何度も転生するという考え方とも関りが深いものです。

著書ではないですが、上原先生の発言にはこのようなものもあります。


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赤ちゃん
 『わたしの赤ちゃん』のような所有物という意識は困る。『私の系列の子』という意識。                      (平成六年忘年会)

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学校の先生でも親御さんでも、子ども達は「自分の作品」という発想がはびこっているように思います。

高度経済成長の影響もあるのでしょうかね。
農耕民族として蓄積された教育観では、それぞれの作物がそれぞれ持って生まれた性質が最大限に発揮されるよう、最も適した栽培用を模索するのが普通だったのが、オートメーション工場のイメージに置き換えられてしまった。

画一的な方法で、思い通りの同じ規格の製品が大量生産できる・・・高度経済期以降の学校教育は、まさにこの発想に毒されてしまいました。
社会の多くの人が抱く「学歴」という基準が世の中の絶対基準になり、それは現在の競争原理・成果主義によって、全国一律のテストの結果で学校や地域を競わせる風潮にもなっています。

思い通りの結果にならない子は「失敗作」「不良品」扱いということですよね。

でもかつて普通に言われていた「子は授かりもの」という発想では、その子その子がもともと持っている「天分」「才能」を尊重して、しっかりと育むというのが大人や社会の役割だったわけです。

それを無視して、大人や社会が勝手に決めた基準での姿を無理強いし、優劣を決めるから人間はどんどんおかしくなってしまったと思います。

これは決して人間の貴賤を言っているのではありません。生まれによる縛りをいっているのでもありません。
その子その子の持ち味を見極め、その子が最も担える役割をはたし、社会に貢献できるように後押しするのが教育の役目だったわけです。

先生が「若返る」といっているのは、他の言葉では「生命力」「イメージ力」ともなります。
「新たに生まれなおす」というのは大きくいえば「一回一回の人生」
でも小さくいえば「毎日寝て起きる」が「死と再生」のイメージです。
さらに小さくいえば「休憩をとる」「遊ぶ」がそれになります。

*ブログ「たぬきの館」のこの記事も山椒してみてください。
上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー6
「停滞からの脱出のカギ イメージ力」
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12844971243.html

上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー7
「遊び・遊び心・遊び場所」
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12845082990.html

プロフィール

HN:
上原輝男記念会
性別:
非公開
自己紹介:
本会は、上原輝男の功績を顕彰し、民俗学・国語教育学の発展に寄与する研究と交流を目的として設立されました。

ここでは上原先生が探求された事柄を、広く一般の方々にも知って頂くために、先生のあらゆる分野の語録を紹介しています。

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