忍者ブログ

上原輝男記念会 上原先生著書からの語録

「上原輝男記念会 上原先生語録集」では元玉川大学教授、上原輝男(文学博士 専攻 心意伝承学)の語録を紹介しています。 非常に多岐に渡っていますが、先生が生涯をかけて探求された、この風土、歴史、文化に根付いた<日本人>ということですべては繋がっています。 多様な価値観によってふだんの生活も国際社会での関りも難しさをます現代社会において、先生の語録は大きなヒントになると考えています。

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

「日本人の心の偏向」を探る

**************************************************

日本人の心をほどく かぶき十話 より  
平成7年5月13月 オリジン社

歌舞伎は日本人の心の偏向
 なぜ私が歌舞伎を取り上げるかというと、能(謡曲)よりも歌舞伎の方が知識人がつくっていないという理由からである。庶民がつくったものであるから、理屈があってつくっているわけではない。つまり、偏向がまま、偏りのまま、好きな放題につくってきたということである。だから、学問的に処理する場合、一番自然な形でいい材料があるというふうに考えている。   p13

*****************************************************

私(駿煌会主宰 HN 虚空)がしばしば引用している言葉です。

歌舞伎の書物ではありますが、「歌舞伎解説」が目的ではないということです。
解明しようとしているのは「日本人の心の偏向」・・・日本人の特徴です。

ですから「歌舞伎の話なのね」「歌舞伎?自分には関係ない」という姿勢では、最も肝心な部分が伝わらない。
私が常々もったいないと思っているのは、この「かぶき十話」は様々な人達にとって関りの深いことが満載なのに、「かぶきの本」ということだけで、一般の方々には手にもとってもらえない、仮に手をとって頂けても、先のような意識で、みなさんとは切り離されて読まれてしまう、ということです。


私はこの歌舞伎を現代に素直に当てはめると「漫画」「アニメ」「(ストーリーものの)ゲーム」などになるだろうという発想で読んでいます。これらのものを通して、上原先生の追い続けていた<日本人の根底にあるもの>のが垣間見られるのではないか、ということです。

実際に駿煌会の若者たちや、家庭教師での中高生、大学生、斜偉人の人達と漫画やアニメなどの話になることが多いのですが、それらの背景にある日本人の偏向性に対して強い興味を抱いてくれる方々は多いです。

国語の文学教材や古典などとの接点、また私の場合は、駿煌会で数学が専門のHN諷虹君などと「理数」の話と「アニメ」の話と「上原先生の説くに古来からの日本人の心」はとっても相性がいいんですよね。

数学的な論理の世界も、物理学などの自然科学も、根底にあるのは「世の中の真理」の探究。
それを言葉で行えば「心意伝承」「集合的無意識」となり
数式・図式で行えば「数学」「自然科学」になるということですから。

さらにいえば、上原先生は「論理」と「感情・イメージ」は別々のものとはとらえていません。
人間の中では密接に関わり合っているものどうしだと。

そのせめぎあいが顕著に表面化し、子ども達の日常を最新の注意をもって見守らなければならないのが小学校の中学年・・・特に4年生あたりからです。

心やイメージは個人単位だけではなく、民族単位でも偏り「偏向性」がある。
その偏りを積極的に活かしつつ、社会のなかでみんなが共存共栄していけるか・・・そうした姿も歌舞伎の向こう側に垣間見られるというだけではありません。

歌舞伎が「型」を重視するということにおいて、どうして「型」(様式)が芝居という感情・イメージの世界とつながるのかということの解明は、数学・理数といういわゆる理系分野の視点もいれながら、文系分野も考えるということそのものだと、私はとらえています。

この発想は、教師であれば「心に響く授業」を実践するための重要なヒントとなります。
常識の枠にとらわれなければ、見かけ上はまるで関係なさそうな分野のことが、様々な分野と響き合い、子ども達の中にネットワークを形成していきます。



そうした教育の段階がまさに小学校の先生の役割なんだと上原先生は主張している。
だから「学級担任制」が大切だ・・・という話になっていくわけです。
一人の子ども達が各教科や分野、そして娯楽に対してどのように響いているかを総合的に把握できるのが学級担任。何もそれぞれの分野の専門家である必要はないんです。むしろ専門がはっきりしているほど垣根をつくることを働きかけてしまう危険もありますから。

小学校の先生は一人一人の子ども達の「まるごと全体」を把握し、その中で次のステップに進めそうな分野、つながりを見出せそうな分野をみつけ、そこに適切な刺激を与え紗絵すればいいんです。

そうしたら勝手に子ども達は伸びていくし、そういった土台を小学校段階で整えてもらえれば、中学生以降の知的学習も各教科を統合した形で結び付けながら伸びていくことが期待できます。


「たぬきの館」の方でも書いたことですが先生が「テレビ作家」とか、あるいは「歌舞伎」を話題にして書いている文章でも、そのような枠にとらわれて読んだら、それっきりなんですよね。

先生の言葉にふれるコツは、見た目の言葉にとらわれないで、みなさんの中でどんどん他の分野との接点を見いだしあてはめてみる、
上原先生が説いているのは上原個人の思想ではありません。
日本人(人間)の根源の研究ですから誰にでも無意識の中にあることです。

ですから、「人々の心に深く響いて欲しい」という願いをもって創作活動をされている方々、あるいは商品開発などの経済活動をされている方々、教育に限らず福祉分野などで人と関わる方々・・・・子育てをしている親御さん達・・・・先生の説かれている内容は、全ての人達にとって、大いに参考になることの宝庫です。


参考)先の文に先立ち、この著書の基本姿勢について、線背はこのように書いています。
********************************

日本人の心の仕組みと整えをほどく
 この本の角書に"日本人の心をほどく"とつけたところがミソで、最初の段階ではもっと丁寧に「日本人の心の仕組みと整えをほどくかぶき十話」と、こういうデーマを考えた。・・・・・
日本人の心は、どんなふうに仕組まれているのだろうか、あるいは整えられているんだろうかという問題を考えてみたいということである。

 歌舞伎の解説・ガイドブックの類はたくさん出版されている。また、ここでそれを学問的に歌舞伎 の成立史だとか、あるいは歌舞伎の芸の説明をすることは省略する。

歌舞伎の成立を取り扱うことに よって日本人の心をほどいてみようという、そういう開き直りのつもりもないが、ごく自然な形で、 日本人の心がどんなふうにつくられてきているのかを問うてみたいと思っている。だから、先年まで 「心の民俗学」というような名で呼ぼうとしたことがあった。
p10

*******************************


本日更新のブログ「たぬきの館」
上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー9 「テレビ作家の教育力」
もあわせてご覧ください。
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12845368943.html
PR

「教え は 作用の感染」

****************************
藝談の研究 心意伝承考  (昭和47年 早稲田大学出版部)

・折口先生は、教育は感染作用だと言われたことがあるが(注)、それは教育の定義というよりも、教育という人間行為を、人間生命の不連続の連続という人間関係の中で把えた、またそうした人間関係を関係づけしめる人間本性に深く根差した見解であったと思う。・・・・・

”教え”は、解答として求められはしなくて、求める者に感染(うつり)感応する働き(作用)を言っている。・・・・教わろうとすることは、感染・感応を期して受けようとしているのである。感染作用が起きたとき、伝わったのであり、またそうあるべく伝授するのであって、ものを伝授しようとするのではない。

注)折口信夫全集第十巻「歌及び歌物語」八ふりの項参照 

*****************************

なるべく分かりやすい部分んを選んで抜粋しましたが、この「藝談の研究」は難解である事の多い先生の著書の中でも最も難解と言われています。漢字も敢えて旧漢字が使われていますし、言い回しも難しい。

なので、現代にとっては身近な「テスト対策教育」と関連させて述べたいと思います。

現代の教育は、ここで述べられているのとは真逆になっていることが多いです。
模範とされる「解答」が示され、それを「暗記」させられる。「ものの伝授」のみです。
だから伝授された内容とちょっとでもずれていると、もうそれを活かせない。
俗にいう「応用力がない」「頭が固い」という子どもを事実上育てています。

でもそんな教育法が「無駄のない合理的な教育法」とされているわけです。
習った通りの問題ばかりが多い小学校のペーパーテストならそれですぐに100点が狙えるから勉強のできる子になった、と大人は安心します。

中学校になる頃にはかなり怪しくなる。

*もっとも中学校の先生によっては、親や上から指導力を疑われる等々の理由で、問題集やプリントとほとんど同じ問題を出す方も少なからずいらしゃるんですよね。中3であっても教科書の章末問題と全く同じ問題を出題されている方もありました。そんな学校の生徒を家庭教師で担当したことがあります。
担当するようになってすぐにあった期末テストの前日、数学で全く内容を理解していなかったので説明しようとしたら「そんなのいいから、答えだけ教えて。それを覚えるから」と。
テスト前日ということもあったので、「本当はこんなやりかたは人間力につながらないからね」と伝えつつも、仕方なく私が章末問を解いて紙に書き渡しました。

結果は95点くらいだったと思います。数字を覚え間違いして一つ間違えてしまったと。
学年の数学の平均点は90点以上でした。そりゃ当然ですよね。

でも中学3年生以上になると入試に向けての模擬テストなどが毎月行われる学校もあります。
そうすると完全のお手上げなんですよね。学校のテストでは高得点をとっていても、事前に問題を知らされていない学力テストなどでは平均を大きく下回る生徒が続出です。

高校になると試験範囲が広く、内容も複雑になるので、全教科を力づくの暗記で乗り越えるのは至難の業。それでも覚えて学校のテストは全教科高得点をとる子はいます。でも心身はボロボロになっていく・・・・
逆に幼少期から頭がちゃんと使えるように成長してきた子は、それほど勉強時間をとっていなくても、同じような点、あるいはもっと上の点がとれるんですよね。

初等教育段階などはまさに「もの(知識)の伝授」ではなく「作用(ものの見方・考え方等々)」の勉強への姿勢、そしてそれに伴い「好奇心・学ぶ楽しさ・喜び」を伝授することが重要となっていきます。

さらにいえば、すべての教科が専門ではない小学校の先生こそ、苦手、嫌いな教科(分野)に対する良き向かいあい方を授業で示すことができます。
「先生でも苦手な教科とか嫌いな教科があるんだ。それでも先生は面白がってるみたいだな」という具合。子ども達と一緒になって学ぶ楽しさを味わう・・・まさに子弟同行ですよね。


「小学校でも教科担任制を」という声は以前からもあります。
それは「知識というモノの伝授が教育」という発想です。

上原先生は小学校は絶対に学級担任制であるべきだと主張されていました。
その理由の一つがこの「作用(姿勢)」の伝授が小学校の先生の役割だからです。
(もう一つの理由についてはまた別の機会に)



私が学校に勤めていたころ「知識偏重教育」への反省から、真の学力・生きた学力の育成のために「関心・意欲・態度」を育てることが盛んに言われました。

せっかくこういうことが強調された時代もあったのに・・・・「早い安い」式の教育によっての合理化で、学ぶ際の子ども達の「あれこれの中で遊ぶ」がムダとされてしまったんですね。

*別ブログ「たぬきの館」
上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー8 「あれこれ」
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12845215979.html

も是非あわせてご覧ください。

「死と再生 ~生命の復活~」

***************************
感情教育論  より 
昭和58年 学陽書房

折口学では、「一家系を先祖以来一人格と見て、其が常に休息の後また出て来る」という。つまり、「死は死でなく、生のための静止期間」をいい、生は蘇生であって、新生ではない。ということは、神意神霊(魂)の憑りつくことによって生命が復活するのである。日本語における「若返る」という語も、これで初めて納得がゆく。
("若"の思想――-序にかえて  から)

***************************

上原先生は折口信夫先生の晩年の弟子の一人でした。
この「一家系一人格」というのは、魂は生き通し・・・何度も転生するという考え方とも関りが深いものです。

著書ではないですが、上原先生の発言にはこのようなものもあります。


*******************************

赤ちゃん
 『わたしの赤ちゃん』のような所有物という意識は困る。『私の系列の子』という意識。                      (平成六年忘年会)

****************************


学校の先生でも親御さんでも、子ども達は「自分の作品」という発想がはびこっているように思います。

高度経済成長の影響もあるのでしょうかね。
農耕民族として蓄積された教育観では、それぞれの作物がそれぞれ持って生まれた性質が最大限に発揮されるよう、最も適した栽培用を模索するのが普通だったのが、オートメーション工場のイメージに置き換えられてしまった。

画一的な方法で、思い通りの同じ規格の製品が大量生産できる・・・高度経済期以降の学校教育は、まさにこの発想に毒されてしまいました。
社会の多くの人が抱く「学歴」という基準が世の中の絶対基準になり、それは現在の競争原理・成果主義によって、全国一律のテストの結果で学校や地域を競わせる風潮にもなっています。

思い通りの結果にならない子は「失敗作」「不良品」扱いということですよね。

でもかつて普通に言われていた「子は授かりもの」という発想では、その子その子がもともと持っている「天分」「才能」を尊重して、しっかりと育むというのが大人や社会の役割だったわけです。

それを無視して、大人や社会が勝手に決めた基準での姿を無理強いし、優劣を決めるから人間はどんどんおかしくなってしまったと思います。

これは決して人間の貴賤を言っているのではありません。生まれによる縛りをいっているのでもありません。
その子その子の持ち味を見極め、その子が最も担える役割をはたし、社会に貢献できるように後押しするのが教育の役目だったわけです。

先生が「若返る」といっているのは、他の言葉では「生命力」「イメージ力」ともなります。
「新たに生まれなおす」というのは大きくいえば「一回一回の人生」
でも小さくいえば「毎日寝て起きる」が「死と再生」のイメージです。
さらに小さくいえば「休憩をとる」「遊ぶ」がそれになります。

*ブログ「たぬきの館」のこの記事も山椒してみてください。
上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー6
「停滞からの脱出のカギ イメージ力」
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12844971243.html

上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー7
「遊び・遊び心・遊び場所」
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12845082990.html

「内なる無意識が現実問題を解決してくれる」

*******************************
日本人の心をほどく かぶき十話 より  
平成7年5月13月 オリジン社

 無意識が私をどこかに連れていく。その無意識というものはどこから成立してくるのかということが知りたい、また興味がある。そういうものを心意伝承というのである。だから心意伝承という学問ほど面白いものはない。

まだ心意伝承を口にする学者が少ないし、また私どもの業績も乏しいから、世の中がこっちを向いてくれないことも無理ないことだが、本当はもっと心意伝承学をやろうとする人が増えてくれれば、人間の幸、不幸の問題など、簡単に解決するだろうと思っている。・・・・・P173

******************************

ブログ「たぬきの館」での記事とあわせてお読みいただきたいと思います。
切り口は違っていても、根は同じようなことを言っているんですよね。

上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー5
「あこがれ」
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12844830595.html


上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー6
「停滞からの脱出のカギ イメージ力」
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12844971243.html


「内なる自分」の無意識の中に、すべて答えはあるんだということ。
無意識世界のとらえかたには諸説あるのですが、上原先生の「無意識」「心意伝承」はユングの集合的無意識に近いかもしれません。
「本当の自分」という言葉で自分を限定してしまいがちな現代人ですが、無意識の中にはまだまだ出会っていない「自分」がいくらでもいるわけです。
されにいえばどんどん深いところには人類共通の意識がある。困難を乗り越える知恵だって既に持っている。

今自分が意識している「自分」は現実を乗り越えられないかもしれない。
でもまだ出会っていない自分は、それを乗り越える術を会得している自分かもしれない。

別稿でまたふれますが、上原先生が「古典芸能」研究をしていた理由の一つが、この「自分意識」なのだと思います。
「演ずる」というよりは「憑依」なんですよね。・・・「移りと成る」
この肉体は「器」なのだから、日々の精進はこの器を広げることなのだと。

教育の究極の目的も、そんな風にいえるかもです。

だから演じている自分も本当の自分の一つだという感覚。
現代人は他人の目を気にして演じるている自分を「ニセモノの自分」とどうしてもとらえがちですが、それも違った自分として取り込んでしまっていたのがかつての日本人の普通の感覚。

現代社会の大きな問題点は、この「無意識の中から湧き上がってくる違う自分の声」に耳を傾ける時間がなくなっていることです。
本来は「家に帰る」というのは、現実対応で照応した心身を回復させるために、別世界に帰ってくるということでした。

そころが家に帰っても子どもは現実対応に追われます。かつては「宿題やったの」で済んでいたものが「塾や習い事」でつぶれるようになりました。そして情報端末の普及によって、多大な情報の海に浸り、下手すれば夜中でも友達との現実対応に追われます。
それがない時間がせっかくあっても、動画サイトやアニメ、漫画・・・・

私はそういう現代的なことを否定しているわけではないんです。
でも「無意識との対話」が純粋にできるような時間帯も寝る直前にくらいはしっかりと確保してほしいと思うんですよね。
特に幼少期は。

それが不足すればするほど、青年期や大人になって現実対応ができずに心身を病んでしまう危険が高まると思います。

上原輝男の最大関心事 <日本人>って何だろう

**************************
日本人の心をほどく かぶき十話 より  
平成7年5月13月 オリジン社

 私は歌舞伎の専門家だというふうに言われるのは好きではない。また歌舞伎ではなくても、おまえは何かの専門家だろうというふうに言われること自体、本当に好きではない。なぜかというと、それは自分にとって最も関心のあることは、日本人とは一体何者なんだろうということである。
(P172)

*************************

教育学・民俗学・古典芸能論・儀礼文化・・・・上原先生はいくつもの顔をもっています。
しかし先生の中ではそれらすべてが<日本人の解明>として一つにつながっている・・・それがこの文に端的に表れていると思います。

例えば教育関係者であるから、先生の教育に関しての著書だけを選んで読む・・・それはそれで大きな意義のあることなのですが、教育に関しての記述の背景に、これらの探求の成果があるということをふまえると、さらにその重要性が感じられてきます。

注)ここでいう<日本人>とは、この風土の中で古代からの積み重ねによって培われてきた歴史や文化の担い手という意味です。


先生は教育を農業によく例えていました。作物によって最も適する育て方は違うし、同じ作物でも気候や土地の受験によって育て方には微調整が必要になってくる。
だから誰かがある子ども達に行った教育法が優れた結果を出したからといって、それが他の先生の実践、他の子ども達への働きかけに必ずしも有効であるとは限らない。

ましてや、他国での教育学や心理学をもとにした成果であっても、日本人にもあてはまるとは限らない。むしろ害になることさえあるわけです。(これは逆そうですね。日本人に向いている教育法がよその国でも有効であるとは限りません)


そう考えていくと、<日本人の特性>を生涯追い続けたことが「教育の根本」を考える事と表裏一体であるというのは、先生にとっては自明のこととなってくるわけです。

参考
先生はこんなことも口にしていました
「自分のことを教育学者だとか、小学校の国語教育の専門家だとか言った覚えはひとつもない」

(執筆担当 HN 虚空)

プロフィール

HN:
上原輝男記念会
性別:
非公開
自己紹介:
本会は、上原輝男の功績を顕彰し、民俗学・国語教育学の発展に寄与する研究と交流を目的として設立されました。

ここでは上原先生が探求された事柄を、広く一般の方々にも知って頂くために、先生のあらゆる分野の語録を紹介しています。

ブログ内検索

カレンダー

10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

忍者カウンター

P R

Copyright © 上原輝男記念会 上原先生著書からの語録 : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]