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上原輝男記念会 上原先生著書からの語録

「上原輝男記念会 上原先生語録集」では元玉川大学教授、上原輝男(文学博士 専攻 心意伝承学)の語録を紹介しています。 非常に多岐に渡っていますが、先生が生涯をかけて探求された、この風土、歴史、文化に根付いた<日本人>ということですべては繋がっています。 多様な価値観によってふだんの生活も国際社会での関りも難しさをます現代社会において、先生の語録は大きなヒントになると考えています。

「対談 上原輝男 × 金城哲夫(ウルトラマン作者)⑤ 「教育的であるということは、内容ではなく形式である!!」

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上原
 たとえばね。善をすすめなければいけないと一全懸命になっている子どもがいるとするでしょう。すると、このときに、悪をにくむわけですよ。しかし、善と悪との二つを考えるようになってくるでしょう。そうすると、いままで、一つの見方でしか見られなかったことが、二つの見方ができるようになる。

 だから、やっぱり、人間のものの見方がどんどん変革されてくれば、それは(人間性が高まるということが)できてくることだと思う。
 さっきの映画の話にしても年寄の方は、映画の場面がとらえられなかった。子どものほうは。そのしくみを見てとった。そこに写されているものは、人間生活でしょう。
 そのしくみがどうなっているかがわからない方の人間の人問性が高いと言えるか、それよりも、しくみがわかるほうが、人間性がわかっていける可能性をずうっともっているって言えないでしょうか。

・・・・・あるおとなが人格の高い人から、ためになる話を聞かされたとするでしょう、このとき、子どものとき、だれかの話を聞いて感激したという感激の仕方を再ぴするかというと、もはやしません。
 ただ、その人の言っている立場とか話の内容が、どういうふうにして、その人においてしくまれてきたかという、そんなことだけを感心しますよ。
 その人がその人の人生をどんな角度から組み立てているのかということだけがわれわれにとって、もはや、関心ごとの的として残っているだけだと思う。

 それが、なにゆえに子どもだけに、人生修養みたいなことを強いて、それを教育だというふうに思うのか。そこは、考えてみる課題だと思いますね。

 (一つの物語でも。小・中・高、大のときに読んだとき、それぞれ感じ方がちがうということに関して)

 それは、ものの見方の仕組が、変わってきたということです。感動する仕組の構造が変わってきたということなんです。
 だから、その構造を変えてやることが必要なんです。作品のテーマなんかをいくら強調したって、子どものイメージには、先生は、あの作品をたいへんほめたということしか残らない。
 そして。そののち、『ああ、先生の感動したことは、こんなことだったんだ!』と気がついたときは、それは、その仕組がわかったというときなんですよ。


金城
 われわれが映画を作っているときに、いい手が見つかったということだとか、テクニックにこんなのを使うということは、実は、たいへんなことなんですね。ある一つの見方ですものね。それは何気なくやられているね。


上原
 ・・・・何気なくやられていることが、子どもには、実は、一生、一番残るものなのですよ。

金城
 僕は、さっき、簡単にテクニックといったけど。むしろ、それがたいせつなんですね。

上原
 そう。むしろ、そちらのほうを主にしたドラマが、今の世に生まれなければ、いけないと思うな。

 ・・・・・われわれは、こういう盲点を持っていると思う。内容と形式を分けて考えるとき、形式は内容の容器でしかないという悪いくせを持っているんですよ。

 形式こそ智恵なんでね。

 実は、それは容器(いれもの)でも、なんでもなくって、最も、生(なま)の智恵だと思うんだ。内容を問題にするってことは。その智恵を問題にしているんでね。


金城
 形式をかるく見るみたいなところが、むしろ、たいへんだいじなことなんだ。さっきの’華麗なる賭け’のテクニックは、東宝映画の中ですぐ使われているんです。目先のきいたこととして。そこに現代人の感覚にピタッときたものが、あったわけでしよ。


上原
 ・・・・・だいじなことですね。われわれがものを考えるとき、小さいときに、オレはいまあの映画で見た、あの小説で読んだ形式でものを考え、捉えているという記憶がたくさんあったと思うのです。

 ・・・・・あるでしょ。自分に出てくる。それは影響しているんじやありませんか。だから、そちらの方が教育というのはたいせつなのではないかと言うんです。


金城
 僕が、さっき言った″手″とか’テクニック’や形式は、一つの目として考えれば、そこに新しい見方が出てくるのでしょう。すると違った角度から見たり考えたりすることができるでしょう。
 ということは、内容が豊富になるということですね。

 一つのパターンでしか、物が見られなくなっているというのは悲しいですよね。


上原
 ・・・・・だから、それを改変する仕事がおとなの仕事だと考えねばいけないって言っているのです。

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金城さんがさいごにいっている
「一つのパターンでしか、物が見られなくなっているというのは悲しいですよね。」
ですが、今の世の中はネットなどで多様な考え方の情報があふれている割には。なぜか物の見方は、一つのパターンでしかみようとしなくなっているように思うんですよね。

ちょっとでも違うパターンは激しく拒絶する傾向が強い人がどんどんふえているような・・・。

この対話部分には
「教育的であるということは、内容ではなく形式である!!」
という見出しがついているわけですが、獲得している形式が貧弱なのは、教師が示した通りに受け止め、テストなどで再生できるかどうかばかりの日々を幼少期から送っている、という影響も強くあるのかもしれませんね。


参考 同じ義務教育といっても、小学校段階は中学校とは全然違う、ということに言及している言葉を個人ブログでも紹介しています。

上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー12
小学校教育 と 中学校以降の教育の違い
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12846475984.html
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「対談 上原輝男 × 金城哲夫(ウルトラマン作者)④ 「新しいタイプのものの捉え方が生まれつつある」

伝えたいテーマに対しての「描き方」「場面後世の仕方」というのは、そのまま「教育目標」に対しての「授業構成」「日々の積み重ね方」と置き換えて読んでみてください。

そうすると、この部分も昨日と同様に作家の立場の話であっても、教育(授業)の基本そのものと思います。
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上原
 ・・・・簡単に言うと、子どもに桃太郎の本を見せるときわめて初歩的な段階では一場面一場面としてしかとれないわけですよ、「ももから生まれた……」とね。それが、どんどん大きくなるのが次に出てくる。ところが、いま、要求されていることは、場面ごとにパンチがきいていて強烈でなくてはならない。と言うことは、次の場面と切り離されていることが、子どもに受けがいいということなんでしょう。全体の中の部分、部分と集合としての全体を子どもは、どこかで習得するわけでしょう。その関係のしあいを、いまは、問題としている。そうなると、その辺に秘密がある。

 ・・・それは、私流に言えば、二つの問題があって、継続型の方をとるのと、意外性の方をとるのとある。

 しかし継続を拒否する型をとるものも、拒否されながら、どこかで完結されなければならない。そんな宿命を持っているのですよ。テレビにしたって漫画にしたって、完結はしなければならないんだから。

 形式的に言うと、昔よく言われた起承転結ね。それは、もはや、子どもにとってだめなものか。そして金城さんは、新しい作品を作るとき。その形ではなく、別な新しい場面のっかまえ方、たとえば、部分と全体との関係のしかたを、起承転結ではない新しいバターンを考えつつあるんではないかというふうに、金城さんあたりは考えているのではないか。
 この点をいま少し知りたい気がするんですよ。

(略)

 私は浸画家の才能と言うのはテーマなり、内容的なものをどう配分するかというのではなく、新しい形式を見つけることだと思う。さっき言った起承転結とはちがった、転々承々か何か知らないけれど、何か他のパターンを見つけることであり、そうしたときにこそ内容が盛り込めたというのだと思う。それを期待したいんです。

 テンポが早くパンチがきくのを子どもが好むというのは、何かものの見方の一つの型をそこで習得したことだと僕は思っている。いままでストーリー性しかなかったのが、別の見方ができはじめたと考えたいんだ。だから、次の手がうてるのであれば、漫画やパンチのきいたものを与えるのも教育的に見て決してかまわないと思う。人間の新しいものの見方ということにおいてね………

 この雑誌を始めたのもそのような考え方があったからなのです。空間とか時間というんだって、これは人間がつかまえたわれわれの世界の構造を、時間空間というとらえ方をどこかで覚えてきたわけでしょう。

 だから、この時間空間を更に寸断するとか、あるいは、新しく組みたてるという方法を、われわれ新しい人間はつかまえていかなくてはならない。だから、もはや、物語内容にヒューマニズムがあるとか主題がどうであるかという問題は、陳腐でしかない。むしろ、それは、非教育的な内容しかないというようなこと問題でないと思う。もっとたいせっなものがあると思う。

 たとえば、子どもに修身の教科書の内容をどんどん入れれば子どもは、すばらしくなるかというと、決してなりはしない。それよりも、ものの見方という新しいパターンを創造していくことのほうが、新しい人間を作りあげる上でたいせつなのではないだろうか、

 ・・・・たとえば、九時ちょうどに人間が殺されるというドラマがあるとする。あと十分ある。しかしテレビでは時間制約のために場面転換が行なわれている。そのようなときに、どんなテクニックを使うかが聞きたいのです。

 そのテクニックを示すということは、そのようなものの見方を指導していることと同じであると考えるのです。それが子どもの能力とかけ離れていれば、子どもはそこに不可解を感ずる。それは絶えず苦方していることでしょう。

金城
 そうですね。ただ僕はそのように理論付けで行なっているのではなく、勘でやる。だから、どこかでそれをやっているとは思うのですが、それを意図しているわけではない。あんまり。

上原
 そう。子どもが喜べばいい………それは、わかる。われわれの知りたいのは、子どもが喜んだのは、作者が何をやり、どんな仕組をしたから喜んだのか、だとか、子どもが作りあげようとする構造と作者が考えていた作品の構造とがどこかでピタリとあったんだ、そんなふうに思い、その分析をやりたいのです。また、しなけれれぱならない仕事だと思う。

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この対談からずっと後、先生の主宰していた児童の言語生態研究会の雑誌15号のテーマは「子どもにとっての時間と空間」でした。
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/journals/JidouGengoSeitaiKenkyu/i/15

それがどうして教育の根本問題となりうるのか、という先生の言葉を個人ブログの方でもとりあげています。

上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー14 「生き方」の指導


「起承転結」というのは物語展開の基本形のひとつですが、これは中国の漢詩の型ですよね。
日本の芸能だと能楽の「序破急」という型があります。
教師が授業の展開を考えるときにもどちらかを基本形として考えていらっしゃると思います。

その型のスタイルをどうするのが効果的なのか、と考えることが、まずこの対談での内容と重なる部分。



でも、「部分と全体」という視点からは、もっと教育の根源に関わることがつながっています。

時折行われるテストで子ども達が点数をとれる、それで先生や親にほめられる、友達に対して優越感を得られる、という構図は、そのまま教師とか、学校とか、市町村レベルでも変わらないですよね。全国都道府県の中で学力テストの平均点がトップになったとか、そういうことで一喜一憂していますから。

その時その時に評価されたことで喜んだり悲しんだりするのは、人間の本性でもあるのでしょう。
だからそのこと自体はきっとずっとこのままですよね。

ただ、問題にしなければならないのは、それが「子供の成長」「みんなにとって生き生きと暮らせる社会の形成」という大きな流れと、あまりに解離・分断されてしまっているということです。本末転倒になってしまっているように思うんです。

家庭教師をしていて、特に中学校・高等学校の中間テスト・期末テストで多かったのが、ふだん使っている問題集やプリントと、ほとんど同じ問題を出題することが非常に多かったこと。極端な場合は、数学で教科書の章末問題を完全にそのまま出題する中学3年生の先生がいらしたこと。その学校の生徒は解法の途中を書く欄のない解答欄に、暗記していた数字などだけを書けばいい。だから学年の平均点は95点前後でした。でも、学力テストや模擬試験だと県の平均をうんと下回る・・・当然ですよね。

まあ、それは極端な例ですが、あれほど入試ではカンニングや問題漏洩がニュースとなり批判されるのに、どうしてこういうことは堂々と行われているのだろうと不思議に思います。

そりゃ「普段から授業をきちんと受けて、課題をこなしている生徒がむくわれるように」という配慮からのことだという意図も分かりますが、それによって、解き方を覚えている問題ならニッコリ笑って解けるけど、ちょっとでも変えられたら全く歯がたたない・・・というのでは、本当に教育といえるのか???

確かに、点数ばかりで先生や学校を評価し、厳しく注文をすけてくる上かや世間からの圧力は、尋常でない場合もあります。そういう地域などの先生方は、自分達の身を守る為に、そうするしかないのでしょう。

でも、そうすることによって、肝心の子ども達の生きる力は確実に未発達になりますよね。
場面場面のパンチのある描写しかない作品が、一時的に人気作になってもすぐに飽きられて忘れ去られるのと同じです。
一発芸で大流行した芸人さんで、あっというまに消えていった人達などもそうですよね。

そのあたりの問題が、今回載せた先生の最後の言葉にあらわれていると思います。


上原
 そう。子どもが喜べばいい………それは、わかる。われわれの知りたいのは、子どもが喜んだのは、作者が何をやり、どんな仕組をしたから喜んだのか、だとか、子どもが作りあげようとする構造と作者が考えていた作品の構造とがどこかでピタリとあったんだ、そんなふうに思い、その分析をやりたいのです。また、しなけれれぱならない仕事だと思う。

「対談 上原輝男 × 金城哲夫(ウルトラマン作者)③  継続と切断という矛盾

今回は長めに紹介しています。

あの当時はストーリーもの子ど向けテレビ番組でも放送話数は今と違って非常に多かったという背景の違いがあることを念頭に入れてお読みください。

今にあてはめると、漫画の連載にあてはまるような話とも言えます。

そして「教育」の「今」と「これから」を考える上での重大なカギもかくれていると思います。

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(一場面から次の楊面への移り変わりをどのように考えているか、
完全に前の場面と次の場面が切断されていて、ほとんど無関係なものほど喜ぶという意味なのか、
あるいは、どこかで、つながりを持たせてあるということなのか。)

金城
 無関係なほど喜ぶのではないでしょうか。そこに意外性があります


上原
 それそれ。その意外性ということになると、さっきのパンチの問題につながってくると思うのだけれど。


金城
 非富に対立関係のある二人の人物がいたとするでしょう。その場合、こういうわけで喧嘩するというのではなく、まず、アクションのシーンがあって、そのうち二人がなにゆえにそうなったかのシーンがあるのです。その行きかたの方が、パンチがあるのです。アテンションゲッターといって、まず、子どもが、アーッと驚く。

そこで引き込んでそれから自分の言おうとするテーマにはいるのです。段取りをつけるより、意外性でもっていかないと、子どもたちはついてきませんね。

たとえば、いまの子どもは、ノラクロだとか、冒険ダン吉なんかおもしろくないと言いますね。それは、パーッと石を投げるでしょう。すると石が空間に止っているのです。いまの浸画は、パーツと空間にスピードを持って流れている描写がありますね。このように子どもの見方自体がかわってきている。それをパンチがあるというのです。


上原
 今回の、われわれの特集から言えば、そんなところに子どもの場の捉え方があるというふうに問題にしていかねばならないと思うのです。子どもの導の捉え方自体がいっも動いているということ、そう捉えるべきではないかと、このことは思いますね。


(一つ一つの場面が強烈でなくてはならないが、それが全体的な何かを持だなくてはならない
つまり場面の継続と切断の問題)


金城
 それは、パンチだとかアクションものに子どもが飽きて来て、子ども自体がハート的な内容を喜ぶようになっているということだと思う。たとえば″巨人の星″という浸画は、ひとりの貧しい少年の人間成長のドラマなのです。’男の魂″みたいな物語です。ああいったものに今日かえりつつあるということも言い得ます。だから、僕は、このごろ、たいへんしつっこい性格をもっている男だとか、ダメな奴が苦労して冒険をしていく物語をパンチを忘れないで書いています。



上原
 だから、そこのところが聞きたいのです。一つの成長のプロセスと言ったでしょう。つまり、片方では、長い楊面を意諏している。そして、その中における一つ一つのカットはたいへん短かくなくてはいけないということ。それは、どんなことなのだろう。

 見る→読む と移り変わると言ったが、それはそれとして認めたいと思います。しかし、私は、それを。子どもの場面のとりかたの違いというふうに考えていきたいのです。絵本が好まれるか、文章が好まれるかという言い方ではなくて、子どもの頭の中にできてくる場面のとりかたが移動しつつあるというふうに考えてやりたいのです。

さっきの話にもどりますけれど、全体的過程というものと部分的な一つ一つの絵とのつながり関係というところに、何か秘密が隠れているような気がするのです。

・・・・子どもの頭の中でイメージの構成をやるやり方が、変わってくるのではないかと思うのです。
 ストーリーを考えるということは、過程を考えるということ、全体的な継続を考えるということは、パンチのきいたものがほしい・・・切断されたものを必要とすることは、これは矛盾する。一つ一つの場面が切り離されているほうが気持ちがいい・・・しかし、全体的なストーリーを必要とする。これは、やはり、相矛盾する。



金城
 パンチとか場面転換を早くとかいうのは、手法ですよね。全体的なものを表現していく上での今様の手法だということです。



上原
 今様ということは、いまの子どもに合うということですね。では、それは、今の子どもの場面のとり方が、そういうふうであることを、金城さんは、想定しているのですね。



金城
そうです。
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今、アニメの場合だと放送話数が非常に短くなっているというのは昨日もふれました。
だから一つ一つのエピソード、一人一人のキャラの背景を深く描けない。あっというまに12話で最終回になってしまいますから。
そしてそれすらも動画再生や録画視聴で早送り・飛ばし飛ばしという見方をする方が増えている。

昭和の頃は録画なんていうのはなかったですから、好きな番組などはそれこそ気を入れて画面にくぎ付けになって、集中してみていたんですよね。見逃したり、聞き逃したりしたら、もうそれをとりかえせないということもあって。

テンポが速い上に、めまぐるしくストーリーが変かしていく、それをさらに早送りや飛ばし飛ばしでみている。
漫画をよむ際にもページのめくりかたが非常に早い人が多い。読み味わうというよりパッとみての印象ですぐに次のページをめくる。
短時間での動画サイトをつぎからつぎへと観まくる

この対談が行われた当時とは比べ物にならないくらいに、パンチのきいた断片をキャッチしている、というのが今の子どもや若者たちのイメージの構成仕様になっているということなのでしょう。


それはそれでそうなっているのが実態なのだから、そこに合わせていかなければならないのは確かなことです。
テレビ作家も漫画家もその工夫で日々苦心しているのでしょうから。

子どもの成長・・・大人になっても本来は続く教育という営み・・・は、一回一回のテスト対策授業という意識に少なくとも子ども達はなっていると思います。

でも、本当の「教育者」は、今この教材を通して授業していることが、今後の人生にどう影響しているのかをしっかりとふまえつつ、一人一人の意識世界にどうしたらきちんと働きかけられるか、を意識して教壇に立てる存在でなければならないわけです。

断片的なことを好む、授業に集中し続ける持続時間が短い子ども達が増えている・・・・それでも子ども達に教育をしていかなければならない。しかも、生涯に有益という「持続性」をふまえた形で。

そういう現代社会の中で、ホンモノの人間教育をしていくという、相反することの両立のカギも、この上原先生と金城哲夫氏のやりとりには隠れているような気がするんですよね。

対談 上原輝男 × 金城哲夫(ウルトラマン作者)② 「子どものとらえかたのテンポがはやくなってきている」

もともとこの対談は「子どもの場のとらえかた」がテーマでした。

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金城
 (怪獣ブームの話から)しかし、プームになったからと言って安心しているわけには、いかない。

 子どもがものすごく飽きっぽくなっていること。それがものすごいスピードなんだ………だから、そういう意味から、子どもの目をたえず意識して気を配っていますね。

 僕としましては、子どものテンポにあわせてはいますが、でもあまり残酷にならず、極端に刺激したりしない工夫はしています。手塚さんの虫プロでは、手塚ピューマニズムがあり、父母団体らの推薦もある。しかし、どうしても、子どもがついてこないという現実もあるわけです。そのバランスが、たいへんむづかしいところです。


上原
 ・・・・最近の子どもがたいへんあきっぽくなってきたといわれているのですが、それは、場面転換がたいへん早くなってきていると解釈していいでしょう。いわば、テンポの遅いものではだめだと言うのは、テンポの早い場面転換が今日の子どもにできるようになってきているということなのか、それに対してシナリオ執筆の上にもその点を配慮しておられるのか・・・・・


金城
 テンポの問題では、僕は、長ったらしいものは書かない。ストーリーが過去へ動くか、人物が激しく行動するか、少し長くなると主人公を外へ出して歩きながらしゃべらせるかして、画面が絶えずじっとしていないものを書きます。

 子どもは、背景が変わらないドラマをじっと聞こうとはしない。絵がどんどん変わって行って会話がなくてもおもしろいものでないとテレビはだめですね。


上原
 ということは、結局は子どもが楊を捉える場合、場が、どんどん変わってもさしつかえないということになるわけですね。場をどんどん変えるということがテンポが早いということになってくるのですね。つまり、同じ画面では、いけない。絵が変わらなくてはいけない。ということは、場面が変わっていくということですね。それを子どもが好み。またうけるものであるということなのですね。

金城
 そうですね。場という言いかたなのかしら?もっと動いているものとして捉えていますね。

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このやりとり、そのまま現代社会にもあてはまりますね。
しかも「子ども」だけではなく大人でも。

考えてみれば当然でしょうね。
この当時話されていた「子ども」が、今「50代 60代」になっているわけですから。

映像だけではないですよね。
「消費社会」によって、すぐに買い替えるというのがあたりまえになってしまっています。
モノを大事に使い続ける、というのがかつては当たり前のことでしたが、今はそう思っていても貫けない。

家電製品など特に修理対応の期限が7年だっり、買いなおした方が安くつくとか。

自分らしさを大切にと、口ではいっていながら、他人にいかに受けるかをかなり気にしています。
ファッションでも自分に似合うお気に入りのものを長年愛用するというのもへっていますよね。
バブルの頃かども、後宮ブランド品も一度みにつけたら、すぐに別のを買うなんていうのが話題になっていました。
一度披露したらもう驚いてくれなくなるからでしょうね。


ただ、ちょっと気になるのは、そうした店舗云々のことでの飽きっぽさが当時もあったにせよ、それらの記憶への残り方がどうも大きく違っているように思います。

これについては個人HPのコミュニケーション雑感シリーズでも触れたことがあるのですが、場面場面のテンポはやくても、それらが集積された物語全体は、かなり長くても受け入れていたと思うんですよね。
そしてそこから重要なこともたくさん感じ取っていた。
そしてそのことが数十年たっても記憶の中に残り続けていた。

*ワニワニHP 内 http://www2.plala.or.jp/WANIWANI/index.html
コミュニケーション雑感22 アニメも人間もすぐに判定するのはテスト対策国語の影響も?
コミュニケーション雑感25  アニメ・ドラマ・マンガなどでも人間・人生を学べる

そろそろ4月ということでアニメ界ではいわゆる冬アニメが続々と最終回をむかえています。
多くのアニメが1クール(12話)扱いなので、ちょうど春夏秋冬で切り替わるんですよね。
そしてまた4月から春アニメとして新作が数十本はじまります。

年間100本以上が放送されるのが今の世の中。
そして忘れ去れらるのがとにかく早い。放送時にそれなりに話題になっていたものでも、放送終了後数週間でほとんど話題にならなくなります。1~2年したら忘れ去られてしまうものも多い。

昭和のアニメで話題になったものは、アニメファンでなくても何となく知っているという人が今も記憶に残っているものですが、はたして令和の今、放送されていて半世紀たったころに記憶に残っているもの、ウルトラマンのように世代を超えて語り継がれているようなものは数百本、数千本のアニメの中でいくつでしょうね?

この「飽きっぽい」という問題は次回もとりあげたいと思います。

「対談 上原輝男 × 金城哲夫(ウルトラマン作者)① 「真の意外性とは予期されるもの」

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金城哲夫
 あの、意外性ってね、侯は、桃太郎の話だってものすごく意外性があると思うのです。でっかい桃が、どんぶらどんぶら流れて来るわけです。まずこれが意外性ですよ。でっけい桃だなと婆さんが、爺さんの帰って来るのを待って切って見た。中から赤ん坊がとび出した。これは猛烈な意外性ってわけですよ。

 鬼ケ島へ鬼征伐に行くでしよ。いぬ、さる、きじが家来っていうのもそうですよ。鬼退冶ですからね。ウルトラマンみたいなものですよ。これは。桃太郎というと一般化した話だと思うけど、よく考えてみると。


上原輝男
 ちっとも変わらないっていうことね。

……ところが僕なんかはね、実は意外ではないんだという考え方をしている。つまり、作られるべくして作られていった作品であって、川上から桃が流れて来るのも、驚かしてやれなんていうでまかせじゃなく、日本人にとって完全な意外性でなく、予期されるところの意外性なんだな。日本人の感覚にぴったりした意外性であるから、あの話は今日まで伝承されて来た。

 子どもにとって、完全な無縁性ならぱ、その作品は当たらない。わからないということになってしまう。期待される意外性でなくては、やっぱりダメなんだと思う。


1968年 昭和43年頃
************************************

参考)「予期されるところの意外性」というようなことを、「的中性」と呼んでいたこともありました。

25日のブログ記事 心意伝承の解明が目的 ~芸能研究はあくまでも材料~
で心意伝承の探求があらゆる人達にとって有意義ということを書きました。

その理由の一端がこのやりとりにも表れています。
テレビ番組視聴者としての「子ども」ということでのやりとりですが、「大人」だってそうです。
テレビ番組に限らず、心に響く・・・というとうのことが起きるのは、無意識をふくめたそれぞれの人の中に、響き合う元になる共通する何かがあってこそなのだと。

だから完全な意外性を狙ってもダメということなんです。それは単なる身勝手になってしう。


ただ、現代社会は見た目の判断とか表面的な知識のレベルで自分にとって関係あるか、ないのかをビシッと即断してしまう傾向があります。
「味わう」ということをなかなかしない。

深い部分からの共感、共振・共鳴は「味わう」という感覚的な部分からわきあがってくるものです。

まだ「自分が自分が」と自説のみを主張して、他人の意見には一切耳をかさない
一方的に自説をまくしたてるマシンガントーク傾向のある人も共感以前に他人の意見に対して防壁をつくり、攻撃しますから、意中性も何もあったものではありません。

それで相手の意見を叩き潰せたら「勝った!」なんていう気持ちに浸る人達があふれていますが・・・それってやればやるほど孤立していくだけで、本当の幸福感は満たされないとおもうんですよね・・・。


今日の個人ブログは
上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー12 「幸せ」
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12846000023.html

真の幸せも、この内なる世界との関係があればこそ、という内容です。

プロフィール

HN:
上原輝男記念会
性別:
非公開
自己紹介:
本会は、上原輝男の功績を顕彰し、民俗学・国語教育学の発展に寄与する研究と交流を目的として設立されました。

ここでは上原先生が探求された事柄を、広く一般の方々にも知って頂くために、先生のあらゆる分野の語録を紹介しています。

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