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    <title>上原輝男記念会　上原先生著書からの語録</title>
    <description>「上原輝男記念会　上原先生語録集」では元玉川大学教授、上原輝男(文学博士 専攻 心意伝承学)の語録を紹介しています。

非常に多岐に渡っていますが、先生が生涯をかけて探求された、この風土、歴史、文化に根付いた＜日本人＞ということですべては繋がっています。

多様な価値観によってふだんの生活も国際社会での関りも難しさをます現代社会において、先生の語録は大きなヒントになると考えています。</description>
    <link>http://jigentai.blog.shinobi.jp/</link>
    <language>ja</language>
    <copyright>Copyright (C) NINJATOOLS ALL RIGHTS RESERVED.</copyright>

    <item>
      <title>雛祭りは「神婚説話」の投影である </title>
      <description>日本人の心をほどく　かぶき十話　&lt;br /&gt;
第七話　「妹背山女庭訓」　雛祭りの原形　より&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P220&lt;br /&gt;
雛祭りは「神婚説話」の投影である &lt;br /&gt;
私に言わすれば、日本人は結婚というものをどんなふうに考えていたか、その基本的な考え方が「神 婚説話」だというべきだと思う。われわれは何でもかんでも辞書的に知りたいとしすぎて来てしまっ た。少なくとも、伝統的な日本人の結婚観は、神様が寄りついて婚儀が成立するんだと、どこかで思 っていたのだ。またこのことは、「神婚説話」という、日本人の全く底辺というか深層に流れている 考え方は、今日なおかつ死んではいないのである。なぜか。それは雛祭りをやっている限りそう言わ ねばならない。雛祭りは、あれは神婿、神様のご婚儀の崩れた姿であり、見真似であったと、こう考 えられるからである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;nbsp; 雛祭りで最も大事なのは女雛、男雛である。女雛、男雄のお祭りをするのだということである。子 供が誕生して初節旬からこの結婚式の真似事をやらせているわけだから、これは大変なものである。 特にそれを男の節句としないで女の節句としてやってきたあたりが、日本人の深層心理の中に秘めら れた何かがあると私には思える。雛祭りは女雛男雛を飾るところを重要視したい。あとの五人囃子だ とか三人官女だとかいうのは、付け足しで結構だということだが、女雛男雛という呼び方も忘れては ならない。つまり、雌雄の合体を言っているからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;nbsp; 結局、この「山の段」(川場)は可憐にして壮絶としか言いようのない結末に終わる。文字通り雛 飾りした嫁入り道具は雛流しすることによって、嫁入りは同時に葬礼となるのである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;nbsp; 蛇足だが、私は、また今月も二つの結婚式に行かなくてはならない。結婚式のたび毎に言うのでも ないが、祝辞がわりによく口にすることは、あなたたちのことを世間では新郎新婦と言うが、そして きょうは結婚でおめでたいと、みんながそのために祝いに来ているんだけれども、一体何を祝ってい いのかわからなくなっているのが現代人だから、その点をしっかり考えろと。あなたたちはきょうか ら夫婦（みょうと）になるのだ。夫婦（みょうと）というのは、女（め）と男（お）である。それが日本語の夫婦（みょうと）だと。世の中にはたくさん 女と男がいるんだけれども、そうではなくて、こちらの男性はあなたを選んで、あなたを女性だと思い、こちらの女性はあなたを見てこの人が私にとっての男性だと思う。互いにその男、その女の組み 合わせによってのみ、雌雄の合体を確認するのである。それを日本人は夫婦と言ってきた。この夫婦 という言い方はすばらしいではないか、と告げることをする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：&lt;br /&gt;
雛人形のもう一つのタイプ&lt;br /&gt;
「流し雛」については、あらたに統合された「ワニワニ学級へようこそ」で簡単にふれました。&lt;br /&gt;
上原先生の　犠牲論　と少なからず関りがあると思っています。&lt;br /&gt;
ワニワニ学級のアドレスがかわります&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;http://syunkoukai.komusou.jp/&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;http://syunkoukai.komusou.jp/&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（旧ワニワニ学級は　プロバイダーの都合で令和７年　３月いっぱいで閲覧できなくなります）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
</description> 
      <link>http://jigentai.blog.shinobi.jp/%E5%8F%A4%E6%9D%A5%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E7%99%BA%E6%83%B3%E3%83%BB%E5%BF%83%E6%84%8F%E4%BC%9D%E6%89%BF/%E9%9B%9B%E7%A5%AD%E3%82%8A%E3%81%AF%E3%80%8C%E7%A5%9E%E5%A9%9A%E8%AA%AC%E8%A9%B1%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%8A%95%E5%BD%B1%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B</link> 
    </item>
    <item>
      <title>「正月」という年中行事</title>
      <description>雑誌　「児童の言語生態研究　18 号」（2018-10-27 発行）に掲載の上原輝男先生の文章から、正月に関する部分の抜粋です。&lt;br /&gt;
&amp;rarr;『古来「年中行事」という、子ども会活動の意味を求めて : 自然が&lt;br /&gt;
織りなす風土の移り変わりの中に、人間の感覚を一体化させる営み　』　上原輝男&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;file:///C:/Users/miyata/Downloads/Jidou-no-GengoSeitaiKenkyu_18_29.pdf&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;file:///C:/Users/miyata/Downloads/Jidou-no-GengoSeitaiKenkyu_18_29.pdf&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず「春」が「はる」であるのは、「正月」行事を行なうことによって、張る、晴 (れ)る等というように、内部生命力を実感 するのであった。丸いお餅を食べることによって、おなかの持ちをよくしようとしたのも、一つの証明法であったかもしれないし、 白い重ね餅を鏡餅というのも、神にお供えする意味の前に、純白の玉(魂)を視覚的にも 直観したのであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ、一月を正月というのか。このことも正しく指導されたい。神 が来臨している真正の月であるからである。 一年の計は元旦にありとか、一年の幸福を保証してもらいに初詣すると考えるのも、まちがいとは言えないが、それは、人間御都合による神扱いとなってしまう。神が主体で、人が客体として、人が演出されているのである。&lt;br /&gt;
故に正月であった。神が来臨している真正の月の謂である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上原先生の　正月　に関するさらに具体的な発言は、こちらでも更新して紹介しています&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＊ワニワニ学級へようこそ&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;http://www2.plala.or.jp/WANIWANI/index.html&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;http://www2.plala.or.jp/WANIWANI/index.html&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＊たぬきの館　現代にいきる上原輝男&lt;br /&gt;
除夜の鐘の意義と正月の意味&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12880916631.html&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12880916631.html&lt;/a&gt;</description> 
      <link>http://jigentai.blog.shinobi.jp/%E5%8F%A4%E6%9D%A5%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E7%99%BA%E6%83%B3%E3%83%BB%E5%BF%83%E6%84%8F%E4%BC%9D%E6%89%BF/%E3%80%8C%E6%AD%A3%E6%9C%88%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E5%B9%B4%E4%B8%AD%E8%A1%8C%E4%BA%8B</link> 
    </item>
    <item>
      <title>上原先生が書かれた被爆体験の私小説「忘れ水物語」追い書き</title>
      <description>「忘れ水物語」　　追い書き&lt;br /&gt;
　いざ出版するとなると、この作品の性根のようなものからいって、そうすることが適当であるのかどうか迷ってしまう。&lt;br /&gt;
　深くて長い。それでいて、明暗の分かたれぬ以前の薄明と沈闇の、未発の状態でいることが。いまだに正しいように思えてしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　原爆のことを書こうと思ったのは、その傷跡がまだ傷跡とも固まらぬ頃であった。正しくは、書こうなどという意志からよりも、興奮のうわごとを書きつけていたというべきであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そして、その頃、二つの作品を見て、以後、私は筆を折った。&lt;br /&gt;
　映画&amp;rdquo;原爆の子&amp;rdquo;と、丸木夫妻の&amp;rdquo;原爆の図&amp;rdquo;であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　世評はいずれも大反響があったが、私は、映画では身震いするほどの嫌悪感を抱き、絵画の前には不思議に素直になれた。人間が破壊されているのに、破壊されない人間が、破壊された扮装をすることに憤りさえ思ったのを忘れない。これ以上の凌辱があるだろうかと思い。人間の愚かしさをつくづく思った。それに較べて、丸木氏が、木炭画を採択し、しかも赤ん坊だけは、無傷の儘に画かれたことに思わず息をのんだ。書かねぱならぬこと、後世に伝えねぱならぬことは、事実よりも、その事実に遭遇した人々の想念なのだ、と自覚させられた。ただし、そのような筆の持ち合わせが、私にあろうはずはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　折しも、原民喜が、原爆はカタカナでなければ書けぬと言った。私はいまでも、名言であり、箴言だと思っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　以後、馬齢を重ねて四十余年、その間、肺癌にも罹り、いくらか人間の業のようなものが見えてきたといったら、生命冥加を知らぬ奴めがと、またまた死神を刺激することになるであろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　しかし、人は、生まれ変わり死に変わりすることが、生命の存続であると知ったからには、書き残さねばならぬことは、その凄絶さではなかった。その修羅ぶりでもなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そんな時、ふと、巻首に掲げた和歌が、その思いをまとめてくれたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　－別れぬるあしたの原の忘れ水&lt;br /&gt;
　　　　行くかたしらぬわがこころかなー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　木作品が、自伝的であり、私小説ふうたのは、決して意図したことではない。ただ、思いに従うことによってのみ、別れても、別れ離れることのない昨日があしたに続いていることに気付かせられたことによる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　忘れても忘れ得ざるわがこころの秘めごとを、私は素直に書き綴ればよいのだ、と思った。それは一口に言って、幼な心に通う。なぜ、人は子守り唄を唄って、幼な子を寝かしつけるのであろう。なぜ、その眠らせ歌が子守りであるのか。子守り唄には時代かない。また、場所も特定ではない。むしろ時間を捨て、特定場所から遊離することによって。幼な子は夢の中に安らぎを得ることを、人は承知しているにちがいない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　八月六日、午前八時十五分、私は、広島駅頭に在った。しかし、その時、その場所を、私の知覚は見失った。意識を失ったわけではない。一瞬のうちに、人を包んでいる環境が様変わりするとどうなるか、人は立っている位置すらが分からない。いつ、どこで、何を、のすべてが断絶されて。ここを確定することが出釆ない。建物は建っていて普通であり、戸外であれば、人は歩いていて普通だのに、その普通がなかった。また、爆撃なら、爆撃による破康の過程を見て、人はそう認融し、人の死傷も、傷つき倒れる過程を見て、悲惨の情が喚起されるのに、その過程がなかった。私が習い憶えた知覚の中には、その光景を読み解く能力はなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この時、私は助けを呼ぶ声を耳にしていない。なぜか。被害の意識が持てるのは、非被害部分を見出した者だけに限られる。&lt;br /&gt;
　人は、ただ、うめき、泣いた。いや、ただうめき泣いている物が、どうにか、人であった。&lt;br /&gt;
　修羅の巷に、焼け爛れ、腐乱した五体を遺棄して、魂は既に拉致されていた。遠い遥かな妣の国に旅立ちしたかのように、在りし日の記憶が、求めもしないのによみがえった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ひょっとすると、死神の招きにあっているからこうなのではないかと思わぬでもなかった。しかし、そんな思いよりも、次々とあらわれる在りし日の在りし姿の方が、私を魅きつけて離さなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　いまでも思う。あの最中、私は左手の甲の異様に膨れ上がったのを、焼けなかった方の右手の平で押しつけ、膿汁をしぽり出していた。そのことを、全く平然と無感動に行い得たのは、ひたすらに妄想の中にあったからではなかっただろうか。現代人は、それを妄想という。しかし、私たち先祖の人々は、それをよみがえりと言った。よみがえりを死からの蘇生などというのは、現代人の錯誤である。よみがえりとは、果たして過去の記憶の再生をいう言葉であるかどうかを、私は疑う。私にとって、決してそれは妄想ではなかった。また断じて過去ではなかった。もし、魂という言葉が使えるならぱ、魂それ自体に働きがあって、未生に帰る作用のあるのを、よみがえりと人は曾ってそう実感していたのにちがいない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　私はひたすらに、懐郷心にかられていた。人がかく生きたということは、この懐郷心からの遠ざかりをいうのであろうか。人の生命には終焉がある。その終焉があるから、刀折れ矢尽きるが如き生き方を人はかく生きたというのであろうか。その終焉の折に、人は振り返って思う過去の時間が人生だとしたら、あのひたすらな限りない懐那心は一体何であるのか。たとえ、それが死に近い生命体の末期現象だと言われようとも、私にとって、あれは、決して終焉どころか始まりであった気がする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　原子爆弾とは誰が名付けたのか、私は知らない。私だけがではない。原子とは何かを説明出来る人は、専門家以外、そう多いとも思えない。私は音の似通いからばかりではなく、原子に原始を思ってしまう。原子爆弾は、人間を原始に返してしまう爆弾であった。それは人間にとって瞋恚と悔恨との咒符にはちがいないが、それ以上に、逃がれられぬ咒詛の中にしか生きられないことを思わせられた。&lt;br /&gt;
　　　昭和六十二年原爆の日を前に&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　上原輝男&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：：&lt;br /&gt;
関連記事更新　　&lt;br /&gt;
たぬきの館　平成５年夏　上原先生が小学６年生に語った被爆体験です&lt;br /&gt;
上原先生の説かれる現代人にも大切な「意識の転換」ということの大きな原点が被爆体験だったということがわかります&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;http://www2.plala.or.jp/WANIWANI/index.html&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12862644362.htmlワニワニ学級へようこそ&lt;/a&gt;&lt;a href=&quot;http://www2.plala.or.jp/WANIWANI/index.html&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12862644362.html&lt;/a&gt;&lt;a href=&quot;https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12862644362.html&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_self&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/a&gt;</description> 
      <link>http://jigentai.blog.shinobi.jp/%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E8%BC%9D%E7%94%B7%E3%81%AE%E3%80%8C%E8%80%83%E3%81%88%E6%96%B9%E3%80%8D/%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E5%85%88%E7%94%9F%E3%81%8C%E6%9B%B8%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%9F%E8%A2%AB%E7%88%86%E4%BD%93%E9%A8%93%E3%81%AE%E7%A7%81%E5%B0%8F%E8%AA%AC%E3%80%8C%E5%BF%98%E3%82%8C%E6%B0%B4%E7%89%A9%E8%AA%9E%E3%80%8D%E8%BF%BD%E3%81%84%E6%9B%B8%E3%81%8D</link> 
    </item>
    <item>
      <title>人間の生き様　かぶき者＆現代人</title>
      <description>今日が上原輝男没後２８年の命日、ということも意識しての特集です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時には江戸幕府に反抗して処刑されまくった江戸時代の異端者「かぶき者」達と、平成７年当時の人々との生き様について言及しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊&lt;br /&gt;
日本人の心をほどく　かぶき十話　　　上原輝男著　主婦の友社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P5&amp;nbsp; &lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;はじめに　ーいざやかぶかん　&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　私は以前、『忘れ水物語』という作品を世に出した。これは、一般的にいえば私の原爆体験記なのだが、私はいわゆるルポルタージュを拒絶した姿勢を貫いた。そして、巻頭に「別れぬるあしたの原の忘れ水、行く方しらぬわが心かな」の古歌を掲げた。言いたいことは、広島の焦土に、黒い骸から浮遊した魂魄の行方を、またしても追いかけている無意識を捉えてみたかったのであった。・・・・・・・・&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;p6　&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;〈うき世は夢よ。消えてはいらぬ。とかひなふ、とけて。とかいの。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;〈せめて言葉を。うらやかにの。今かへる我に。何の恨みぞ。 &lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;〈夢はへだてず。海山を。越えても見ゆる。よなよなに。 &lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　これらの風潮を享楽主義とだけで片づけてよいものであろうか。そんなこと言うなら、現代の方が どれだけ無価値な享楽の怠惰性が蔓延しているかわからない。かぶき時代は決して怠惰ではない。怠惰どころか、かぶきという感情思考は、死線を超えた者が見たしたたかさが無うてはかなわぬ。怠けはこの世的でありすぎる。だからかぶき者は汚くない。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;・・・当時横溢した生命力は徒らな放出を意味しない。憂き世から浮き世にの意は苦悩から軽佻への転換というのは、誤算的飛躍で、それならば、生きすぎたりやの実感が生まれ出る転機が不明である。現世より確信できる生命燃焼の傾斜自覚が、生きから意気、さらに粋へ、立てから反逆（たて）つく、更に伊達に振舞うの気風を作るのであって、先の世の下剋上は現実処理が先行しているだけに、比重は重いが、憂き世から浮き世へは、この世に比重を置かない決意と覚悟を認めなければならない、だからこそ、かぶき者という特異な生き方集団に献上された命名であったのである。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　戦後五十年、焦土と化した敗戦日本の憂き世の中から、あのとき、不死鳥のように立ち上がった我々の胸の中に画いたのは、今日只今のような日本人の在り方であったろうか。傾き、数寄等々、特異、別派の心情を、もう一度考えているわけではない。しかし、彼等はこの風土の中で、その力学のままに活きたことだけは確かであった。その無意識の行動伝承を集めて、私なりにふりほどいてみたのが本書である。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;平成六年、旧明治節に雨の降る日　　上原輝男&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸時代の異端者「かぶき者」は、当時風紀を乱す者としてかなり厳しい取り締まりを受けたようです。歌舞伎役者もそういう人達が舞台の上で演じていたということで「歌舞伎」も何度も禁止令が出された・・・大勢の人達が処刑もされたと。それでも自分達の生き様を貫いたのが「かぶき者」達だったということです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今風にいえば「反社会的な行為をくりかえす若者達」ということになりましょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ、当時のかぶき者たちと比べた時に、（平成７年当時でいう）現代人の生き様はどうなんだろうと、先生は疑問をなげかけているわけです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先生も明言していますが、「反社会的行為」等々を容認しようとしているわけでは決してありません。&lt;br /&gt;
人間としての「生命の燃焼」・・・・それが生き様の根底にどれだけエネルギッシュに渦巻いているのか・・・それを問題にしているのだと受け止めています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
行動の是非は別として、幕末でも戦後の学生運動の時にも若者達がそれまでの大人たちが作り上げた世の中に対して声をあげ、すさまじいエネルギーを爆発させていたのは事実です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
かすかな記憶しかないのですが、確か七五三か何かで明治神宮に連れていかれた時だと思うのですが、原宿駅前でものすごい数の学生たちがデモ行進をしていました。なんだか分からないけどその雰囲気に圧倒された感覚は６０年近くたった今でも覚えています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
令和の時代・・・先生は今の若者達をあちらの世界からどのようにみているでしょうね？？？？？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
☆重ねていいます・・・反社会的な行為を煽っているのでは決してありません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＊個人ブログの方でも、命日にちなんでの記事をアップしています&lt;br /&gt;
上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー23&lt;br /&gt;
「人格は個人ではなく家系」&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12847898627.html&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12847898627.html&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＊上原輝男記念会　資料集サイトでは、上原先生の命日にちなんで寄稿された４つの資料を今日（４月１１日）の午前中には更新する予定です。是非そちらもご覧ください&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;http://jigentai.edo-jidai.com/&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;http://jigentai.edo-jidai.com/&lt;/a&gt;</description> 
      <link>http://jigentai.blog.shinobi.jp/%E5%8F%A4%E6%9D%A5%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E7%99%BA%E6%83%B3%E3%83%BB%E5%BF%83%E6%84%8F%E4%BC%9D%E6%89%BF/%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%AE%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%A7%98%E3%80%80%E3%81%8B%E3%81%B6%E3%81%8D%E8%80%85%EF%BC%86%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E4%BA%BA</link> 
    </item>
    <item>
      <title>"若"の思想</title>
      <description>&quot;若&quot;の思想&lt;br /&gt;
きのうから「ちゅらさん」づいていますが、あの中で一番魂が若いのは「おばぁ」じゃないかと思っています。&lt;br /&gt;
年齢的には登場人物の中で最高齢ですけどね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*************************************************&lt;br /&gt;
感情教育論　昭和５８年　学陽書房&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;&quot;若&quot;の思想――-序にかえて&amp;nbsp; より&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;折口学では、「一家系を先祖以来一人格と見て、其が常に休息の後また出て来る」という。つまり、「死は死でなく、生のための静止期間」をいい、生は蘇生であって、新生ではない。ということは、神意神霊(魂)の憑りつくことによって生命が復活するのである。日本語における「若返る」という語も、これで初めて納得がゆく。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;&amp;nbsp;&quot;若&quot;は日本人にとって、根底的な生命存在観だといわねばならない。また具体的な教育の根本 もある。古来日本人にとって、&quot;若&quot;は人間の年齢区分でもなければ、また一定年 容詞でもなかったのである。&quot;若&quot;は&quot;別(わけ)&quot;&quot;湧(わく)&quot;などと同じ動詞に想到すると先師の早くからの指摘がある。&quot;若&quot;は蘇生魂の別名とも、またそれに対する日本人の鋭敏な直観とい ってもよいものであった。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;&amp;nbsp;最近、思うところがあって、なつメロから最新曲まで、数冊以上の流行歌謡集について、&quot;若い。 という単語がどのように使用されているか調べてみた。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;昭和一〇年の&quot;二人は若い&quot;、昭和一一年 の&quot;愛の小窓&quot;へ若き生命を散らすやら。昭和一二年の&quot;青い背広で&quot;へ若いぼくらの生命の泰 よ、といったぐあいにである。連想的にも、甘さ、青春、生命、新鮮、清純等の語が謳われて当然 と思えるのだが、最近の歌詞にはそれが見当らない。だいいち、&quot;若い&quot;、という語が姿を消している。若さの変貌であろうか。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;・・・・・・・・・けがれを知らぬ新雪の、と謳いへ若い人生に幸あれかしと祈る瞼に 涙と愛唱した&quot;新雪&quot;は昭和一七年である。戦時下はへ若い血潮の予科練のと、血気 発想され、散り急ぐ桜花に響えられた。その功罪はいま問わぬとしても、これだけ歌や踊りに明け 今に、いずれにしろ、その歌詞を失うというのは、&quot;若&quot;の思想が衰弱し混迷し だけは確かであろう。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　たまたま見つけた昭四七年&quot;瀬戸の花嫁&quot;では、⋯⋯お嫁に行くの。若い とだれもが心配するけれど⋯⋯とある。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;経済成長、高齢社会化という日本人初めての生活体験は、 若さの基準そのものを狂わせ始めているのかもしれない。年齢的なものはもとより、その内容に至 っては、求められ問われることがないのと、日々ますます非行少年、暴走族なる異名が壮んとなる こととは決して無関係ではない。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;&amp;nbsp;まず、&quot;若&quot;の思想を求め直そう、そんな気持ちが働いて、上梓の機となったように思う。&lt;/strong&gt; &lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
昭和五七年師走　上原輝男&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現代人であっても、同じ生命を宿してこの世に生を受け、生きているわけですが・・・生きる活力はだいぶ弱っているように感じられますよね。案外若い世代よりも、還暦以降の年代の人の方がエネルギッシュに生きているようにみえることもあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もちろん介護施設などで弱り切った生活をしているお年寄りもいらっしゃる一方で、そうでない方々がいらっしゃるのもまた事実。&lt;br /&gt;
そうしたことの背景には、こうした「若」への意識の違いもあるかもです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長寿という物理的な時間を問題にしているのではありません。&lt;br /&gt;
たとえば「若がえり」という言葉がありますが、肉体が若くなるというだけではなく、挫折回復力のようなエネルギーの回復もさすのだろうなと。むしろそっちの方が万人にとって大切なのかもですね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー16&lt;br /&gt;
「いのちの力」&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12847032228.html&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12847032228.html&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＊ウマ娘をきっかけに競馬のことをちょっと知ったわけですが、今の教育って「大逃げ」タイプのことばかり強いているような感じですよね。&lt;br /&gt;
でも後半スタミナ切れを起こしてしまうこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
生命力とか若の問題って、こういうことからもいえますね。</description> 
      <link>http://jigentai.blog.shinobi.jp/%E5%8F%A4%E6%9D%A5%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E7%99%BA%E6%83%B3%E3%83%BB%E5%BF%83%E6%84%8F%E4%BC%9D%E6%89%BF/-%E8%8B%A5-%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B3</link> 
    </item>
    <item>
      <title>「個人の心も伝承の流れの内」</title>
      <description>＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊&lt;br /&gt;
日本人の心をほどく　かぶき十話　　　上原輝男著　主婦の友社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;戦後の日本人は戦後の教育が間違ったか、徹底したのか、心は自分のものだというふうにみんな考えるようになってしまった。そして我が心は自分で自由にできるというふうに、自信過剰になってしまった。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　しかし、自分の心は自分の心でありながら、自由にできないのが本当ではないのだろうか。自分の心だという以前に、もう自分の心はつくられている。長い年月かかってつくられている。ただ、人間は歴史的な存在だから、その長い年月というのも、そういう意味で私が今言っているというふうに思われそうだが、もっと丁寧にいうと、どうも数代にわたってつくられると考えるべきではないだろうかと考えている。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　数代以上には及ばないのかという反論が出るかもわからないが、そこは人間の記憶の問題があるだろうというふうに考えられるので、数代にわたってつくられるというのがいいと思う。だから、決して人間の心は、古人が思うように自由自在につくっているなんて、とてもできない。こう考えているのが私の現段階での考え方である。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　別の言い方をすると、日本人は日本人なりの杖を持っていることになろうと思う。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;・・・・・・こういうふうに、一つひとついい出したら切りがないが、日本人には日本人の心の偏向、偏りがあるということである。あるいは趣味といってもいい。好みがあるというおとである。こういう問題を歌舞伎を通してふりほどけたらと、考えている。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
P10～&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「個人の・・・」ということばかりが主張され、学校教育も個々人の保護者や各お偉いさんたち、業界さんの方々からの「公教育」から大きく逸脱した無理難題にふりまわされていることで混迷を深める現代社会。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「伝承」などというと頭から「封建的だ！」と非難されそうですが、やはり「伝承」という「通性」を失ったら、良き社会の実現を担いつつ、自分らしく生きるという人間への成長はできないと思うんですよね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１日からNHKで再放送がはじまった「ちゅらさん」&lt;br /&gt;
自分の夢を追いかけ、自由に生きようとする人達・・・でもやっぱり知らず知らずのうちに、大きな心の流れにのっかって生活している・・・・そんな生き様をユーモラスに・・・でも時としてホロリとさせられるように描いている素晴らしいドラマだと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
理屈抜きで楽しむことが最優先ですが、観終わったときに、上原先生が探求していた古来から「日本人の心」に伝承されてきたこともフトふりかえってみると、みなさん自身の生活もどんどん広がるのではないでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まだずっと先の展開になりますが、ドラマの後半や、あるいは後に制作された続編シリーズなどは子育てが描かれるのですが「教育」の根源を問い続けている作品という観方もできます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー15&lt;br /&gt;
「いのち」&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12846930691.html&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12846930691.html&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＊全編を通して「おばぁ」の語りの内容などは、まさに我々に対しての「教育」ともいえますけどね。&lt;br /&gt;
現実的には脚本の通りにしゃべっているだけではないか、と突っ込まれそうですが（笑）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でも、以前別のブログでとりあげたまさに「テレビ作家の教育力」といえます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー９&lt;br /&gt;
「テレビ作家の教育力」&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12845368943.html&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12845368943.html&lt;/a&gt;</description> 
      <link>http://jigentai.blog.shinobi.jp/%E5%8F%A4%E6%9D%A5%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E7%99%BA%E6%83%B3%E3%83%BB%E5%BF%83%E6%84%8F%E4%BC%9D%E6%89%BF/%E3%80%8C%E5%80%8B%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%BF%83%E3%82%82%E4%BC%9D%E6%89%BF%E3%81%AE%E6%B5%81%E3%82%8C%E3%81%AE%E5%86%85%E3%80%8D</link> 
    </item>
    <item>
      <title>「日常生活での言葉の教育」</title>
      <description>「国語」は単なる１教科ではありません。家庭などでの日常生活、学校生活そべてが「国語の学習」となります。&lt;br /&gt;
そして、幼い時ほど、コミュニケーションの道具とは違う観点での言葉の獲得が重要です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊&lt;br /&gt;
小学校の国語かくあるべき　～現代国語教育の盲点と批判～&lt;br /&gt;
昭和５３年　学芸図書&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;今日の国語教育が言語生活や言語活動の指導であらねばならぬという意味は、英会話を習って日常生活の用が足せるようにしてやるということと同じではなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言語生活と殊更に言う内容は、 われわれが(大人も子どもも含めて)ことばと向き合う自分、あるいは自分にまつわりついて来ることばを処理しなければならない生活を思うからである。また思わなければならないように仕組まれているのが、人間の一生ではないか。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;P20&lt;br /&gt;
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「言葉とはコミュニケーションの為のツールである」とうのが、先生のいう「英会話を習って・・・」の部分になります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実際に現代社会は大人になってもこのコミュニケーションへの苦手意識は相当なものですね。&lt;br /&gt;
もっとも日本人は、いわゆる「社交的な言葉のやりとり」はあまり得意でなかった民族・・・場面によっては「黙る」ことを美徳として生活してきたという歴史があります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だから昭和のある時期から急に西洋流に社交界での社交術のような・・・ある種演じるような・・・ことに転換しましょう、と言われてもなかなかそれが出来ない人の方が多かったと思います。&lt;br /&gt;
それでも無理に演じて若者が疲れ切ってしまったのが「ネアカとネクラ」以降のことだったのでしょうね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いつか改めて詳しく紹介しますが、上原先生はこうしたことに関して「母国語は外国語とは全く違う」ということを様々な場で主張しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＊参考&lt;br /&gt;
ワニワニＨＰ　特集「コミュニケーション雑感」シリーズ&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;waniwani@olive.plala.or.jp&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;waniwani@olive.plala.or.jp&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もうすぐ新学期でのあらたな学級経営がスタートする教職員のみなさんも多いと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「出だしからビシッと躾けなければならない」「最初の数日間で決まる」&lt;br /&gt;
ということは昔から言われてきましたし、ある意味でそれはそうなのですが、「躾ける」という中身が問題です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
お互いに相手の言葉をきちんと聞き合う、頭ごなしにバカにしない、批判しない・・・という、最低限の礼儀・マナーを躾けることはとっても大事なことだと思います。その上で秩序ある「ナマ・本音」の出し方ができるという雰囲気のクラス作り。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ、中には「教師の指示通りにきちんと動く」「教師の期待することを察して言動をコントロールできる」というようにするのが躾だという考え方もあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特にそれが威圧的に行われる、あるいはクラス内でなかなか言う事をきかない子を見せしめのようにして、優越感を大半の子にうけつけて思い通りに動くようにさせる・・・それは、どんなに統制がとれているようにみえていても、人間として最も大切な心や生き様が未発達であるばかりか、屈折した感情をすべての子ども達に獲得させてしまうことになりかねないと、私は考えています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
家庭教師で学校嫌い・学校不信になった子ども達の中には、嫌いになったきっかけとして「習っていない漢字を使ったらものすごく怒られた」「自主学習ノートで、自分が好きなことを図鑑で調べて書いていったら、学校で教えていないことは勉強ではない、って叱られた」という子もそれなりにいました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そういう先生方は、子ども達の成長に関わるすべてを、自分の授業だけで獲得するのだと思っているのでしょうかね？？？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
☆昨日の記事に対してこのような感想がよせられました&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;***********************************************&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;投薬という西洋の発想って成分を抽出してピンポイントで作用させる、乱暴な言い方をすると抗癌剤みたいに癌に効くけど、副作用として健康な細胞にも破壊を及ぼしてしまう。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;現代の教科書を見ても抽出ばかりで同じことだと思います。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;覚えているけど肝心な中身はよく分かっていない人は沢山いる。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;これをやっておけば大丈夫という発想には落とし穴があるという事ですね。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;*********************************************&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;</description> 
      <link>http://jigentai.blog.shinobi.jp/%E6%95%99%E8%82%B2/%E3%80%8C%E6%97%A5%E5%B8%B8%E7%94%9F%E6%B4%BB%E3%81%A7%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89%E3%81%AE%E6%95%99%E8%82%B2%E3%80%8D</link> 
    </item>
    <item>
      <title>「教育の役目・目標」</title>
      <description>年度はじめということで・・・・もちろん家庭教育や生涯教育には年度もなにもないですが&lt;br /&gt;
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊&lt;br /&gt;
感情教育論　昭和５８年　学陽書房&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;教育は投薬ではない。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;それは生まれ出た人の子が、人の心を&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;獲得していく過程を保証することである。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
（P2）&lt;br /&gt;
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これまで何度もあちこちで紹介している言葉です。&lt;br /&gt;
でも、何度読み返してもハッとくる言葉です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に初等教育段階を想定していての言葉なのですが、中学校以降であれば「知的教育」で獲得されることが人間としての豊かさに寄与していくことの保証ということになりましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＊社会的地位の向上とか、歪んだエリート意識を持つ、という意味ではありませんよ！！！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＊参考&lt;br /&gt;
上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー13　「教育者になる」ということ&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12846609386.html&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12846609386.html&lt;/a&gt;</description> 
      <link>http://jigentai.blog.shinobi.jp/%E6%95%99%E8%82%B2/%E3%80%8C%E6%95%99%E8%82%B2%E3%81%AE%E5%BD%B9%E7%9B%AE%E3%83%BB%E7%9B%AE%E6%A8%99%E3%80%8D</link> 
    </item>
    <item>
      <title>「対談　上原輝男　×　金城哲夫（ウルトラマン作者）⑤ 「教育的であるということは、内容ではなく形式である！！」</title>
      <description>＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;上原&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　たとえばね。善をすすめなければいけないと一全懸命になっている子どもがいるとするでしょう。すると、このときに、悪をにくむわけですよ。しかし、善と悪との二つを考えるようになってくるでしょう。そうすると、いままで、一つの見方でしか見られなかったことが、二つの見方ができるようになる。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　だから、やっぱり、人間のものの見方がどんどん変革されてくれば、それは（人間性が高まるということが）できてくることだと思う。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　さっきの映画の話にしても年寄の方は、映画の場面がとらえられなかった。子どものほうは。そのしくみを見てとった。そこに写されているものは、人間生活でしょう。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　そのしくみがどうなっているかがわからない方の人間の人問性が高いと言えるか、それよりも、しくみがわかるほうが、人間性がわかっていける可能性をずうっともっているって言えないでしょうか。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;・・・・・あるおとなが人格の高い人から、ためになる話を聞かされたとするでしょう、このとき、子どものとき、だれかの話を聞いて感激したという感激の仕方を再ぴするかというと、もはやしません。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　ただ、その人の言っている立場とか話の内容が、どういうふうにして、その人においてしくまれてきたかという、そんなことだけを感心しますよ。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　その人がその人の人生をどんな角度から組み立てているのかということだけがわれわれにとって、もはや、関心ごとの的として残っているだけだと思う。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　それが、なにゆえに子どもだけに、人生修養みたいなことを強いて、それを教育だというふうに思うのか。そこは、考えてみる課題だと思いますね。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　（一つの物語でも。小・中・高、大のときに読んだとき、それぞれ感じ方がちがうということに関して）&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　それは、ものの見方の仕組が、変わってきたということです。感動する仕組の構造が変わってきたということなんです。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　だから、その構造を変えてやることが必要なんです。作品のテーマなんかをいくら強調したって、子どものイメージには、先生は、あの作品をたいへんほめたということしか残らない。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　そして。そののち、『ああ、先生の感動したことは、こんなことだったんだ！』と気がついたときは、それは、その仕組がわかったというときなんですよ。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;金城&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　われわれが映画を作っているときに、いい手が見つかったということだとか、テクニックにこんなのを使うということは、実は、たいへんなことなんですね。ある一つの見方ですものね。それは何気なくやられているね。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;上原&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　・・・・何気なくやられていることが、子どもには、実は、一生、一番残るものなのですよ。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;金城&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　僕は、さっき、簡単にテクニックといったけど。むしろ、それがたいせつなんですね。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;上原&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　そう。むしろ、そちらのほうを主にしたドラマが、今の世に生まれなければ、いけないと思うな。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　・・・・・われわれは、こういう盲点を持っていると思う。内容と形式を分けて考えるとき、形式は内容の容器でしかないという悪いくせを持っているんですよ。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　形式こそ智恵なんでね。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　実は、それは容器（いれもの）でも、なんでもなくって、最も、生（なま）の智恵だと思うんだ。内容を問題にするってことは。その智恵を問題にしているんでね。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;金城&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　形式をかるく見るみたいなところが、むしろ、たいへんだいじなことなんだ。さっきの&amp;rsquo;華麗なる賭け&amp;rsquo;のテクニックは、東宝映画の中ですぐ使われているんです。目先のきいたこととして。そこに現代人の感覚にピタッときたものが、あったわけでしよ。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;上原&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　・・・・・だいじなことですね。われわれがものを考えるとき、小さいときに、オレはいまあの映画で見た、あの小説で読んだ形式でものを考え、捉えているという記憶がたくさんあったと思うのです。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　・・・・・あるでしょ。自分に出てくる。それは影響しているんじやありませんか。だから、そちらの方が教育というのはたいせつなのではないかと言うんです。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;金城&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　僕が、さっき言った&amp;Prime;手&amp;Prime;とか&amp;rsquo;テクニック&amp;rsquo;や形式は、一つの目として考えれば、そこに新しい見方が出てくるのでしょう。すると違った角度から見たり考えたりすることができるでしょう。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　ということは、内容が豊富になるということですね。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　一つのパターンでしか、物が見られなくなっているというのは悲しいですよね。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;上原&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　・・・・・だから、それを改変する仕事がおとなの仕事だと考えねばいけないって言っているのです。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
金城さんがさいごにいっている&lt;br /&gt;
「一つのパターンでしか、物が見られなくなっているというのは悲しいですよね。」&lt;br /&gt;
ですが、今の世の中はネットなどで多様な考え方の情報があふれている割には。なぜか物の見方は、一つのパターンでしかみようとしなくなっているように思うんですよね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ちょっとでも違うパターンは激しく拒絶する傾向が強い人がどんどんふえているような・・・。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この対話部分には&lt;br /&gt;
「教育的であるということは、内容ではなく形式である！！」&lt;br /&gt;
という見出しがついているわけですが、獲得している形式が貧弱なのは、教師が示した通りに受け止め、テストなどで再生できるかどうかばかりの日々を幼少期から送っている、という影響も強くあるのかもしれませんね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
参考　同じ義務教育といっても、小学校段階は中学校とは全然違う、ということに言及している言葉を個人ブログでも紹介しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー12&lt;br /&gt;
小学校教育　と　中学校以降の教育の違い&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12846475984.html&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12846475984.html&lt;/a&gt;</description> 
      <link>http://jigentai.blog.shinobi.jp/%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%95%99%E8%82%B2/%E3%80%8C%E5%AF%BE%E8%AB%87%E3%80%80%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E8%BC%9D%E7%94%B7%E3%80%80%C3%97%E3%80%80%E9%87%91%E5%9F%8E%E5%93%B2%E5%A4%AB%EF%BC%88%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%BD%9C%E8%80%85%EF%BC%89%E2%91%A4</link> 
    </item>
    <item>
      <title>「対談　上原輝男　×　金城哲夫（ウルトラマン作者）④　「新しいタイプのものの捉え方が生まれつつある」</title>
      <description>&lt;span style=&quot;text-decoration: underline;&quot;&gt;&lt;strong&gt;伝えたいテーマに対しての「描き方」「場面後世の仕方」というのは、そのまま「教育目標」に対しての「授業構成」「日々の積み重ね方」と置き換えて読んでみてください。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そうすると、この部分も昨日と同様に作家の立場の話であっても、教育（授業）の基本そのものと思います。&lt;br /&gt;
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;上原&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　・・・・簡単に言うと、子どもに桃太郎の本を見せるときわめて初歩的な段階では一場面一場面としてしかとれないわけですよ、「ももから生まれた&amp;hellip;&amp;hellip;」とね。それが、どんどん大きくなるのが次に出てくる。ところが、いま、要求されていることは、場面ごとにパンチがきいていて強烈でなくてはならない。と言うことは、次の場面と切り離されていることが、子どもに受けがいいということなんでしょう。全体の中の部分、部分と集合としての全体を子どもは、どこかで習得するわけでしょう。その関係のしあいを、いまは、問題としている。そうなると、その辺に秘密がある。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　・・・それは、私流に言えば、二つの問題があって、継続型の方をとるのと、意外性の方をとるのとある。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　しかし継続を拒否する型をとるものも、拒否されながら、どこかで完結されなければならない。そんな宿命を持っているのですよ。テレビにしたって漫画にしたって、完結はしなければならないんだから。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　形式的に言うと、昔よく言われた起承転結ね。それは、もはや、子どもにとってだめなものか。そして金城さんは、新しい作品を作るとき。その形ではなく、別な新しい場面のっかまえ方、たとえば、部分と全体との関係のしかたを、起承転結ではない新しいバターンを考えつつあるんではないかというふうに、金城さんあたりは考えているのではないか。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　この点をいま少し知りたい気がするんですよ。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;（略）&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　私は浸画家の才能と言うのはテーマなり、内容的なものをどう配分するかというのではなく、新しい形式を見つけることだと思う。さっき言った起承転結とはちがった、転々承々か何か知らないけれど、何か他のパターンを見つけることであり、そうしたときにこそ内容が盛り込めたというのだと思う。それを期待したいんです。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　テンポが早くパンチがきくのを子どもが好むというのは、何かものの見方の一つの型をそこで習得したことだと僕は思っている。いままでストーリー性しかなかったのが、別の見方ができはじめたと考えたいんだ。だから、次の手がうてるのであれば、漫画やパンチのきいたものを与えるのも教育的に見て決してかまわないと思う。人間の新しいものの見方ということにおいてね&amp;hellip;&amp;hellip;&amp;hellip;&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　この雑誌を始めたのもそのような考え方があったからなのです。空間とか時間というんだって、これは人間がつかまえたわれわれの世界の構造を、時間空間というとらえ方をどこかで覚えてきたわけでしょう。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　だから、この時間空間を更に寸断するとか、あるいは、新しく組みたてるという方法を、われわれ新しい人間はつかまえていかなくてはならない。だから、もはや、物語内容にヒューマニズムがあるとか主題がどうであるかという問題は、陳腐でしかない。むしろ、それは、非教育的な内容しかないというようなこと問題でないと思う。もっとたいせっなものがあると思う。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　たとえば、子どもに修身の教科書の内容をどんどん入れれば子どもは、すばらしくなるかというと、決してなりはしない。それよりも、ものの見方という新しいパターンを創造していくことのほうが、新しい人間を作りあげる上でたいせつなのではないだろうか、&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　・・・・たとえば、九時ちょうどに人間が殺されるというドラマがあるとする。あと十分ある。しかしテレビでは時間制約のために場面転換が行なわれている。そのようなときに、どんなテクニックを使うかが聞きたいのです。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　そのテクニックを示すということは、そのようなものの見方を指導していることと同じであると考えるのです。それが子どもの能力とかけ離れていれば、子どもはそこに不可解を感ずる。それは絶えず苦方していることでしょう。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;金城&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　そうですね。ただ僕はそのように理論付けで行なっているのではなく、勘でやる。だから、どこかでそれをやっているとは思うのですが、それを意図しているわけではない。あんまり。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;上原&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　そう。子どもが喜べばいい&amp;hellip;&amp;hellip;&amp;hellip;それは、わかる。われわれの知りたいのは、子どもが喜んだのは、作者が何をやり、どんな仕組をしたから喜んだのか、だとか、子どもが作りあげようとする構造と作者が考えていた作品の構造とがどこかでピタリとあったんだ、そんなふうに思い、その分析をやりたいのです。また、しなけれれぱならない仕事だと思う。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊：&lt;br /&gt;
この対談からずっと後、先生の主宰していた児童の言語生態研究会の雑誌１５号のテーマは「子どもにとっての時間と空間」でした。&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/journals/JidouGengoSeitaiKenkyu/i/15&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/journals/JidouGengoSeitaiKenkyu/i/15&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それがどうして教育の根本問題となりうるのか、という先生の言葉を個人ブログの方でもとりあげています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;&lt;a href=&quot;https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12846344182.html&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー14　「生き方」の指導&lt;/a&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「起承転結」というのは物語展開の基本形のひとつですが、これは中国の漢詩の型ですよね。&lt;br /&gt;
日本の芸能だと能楽の「序破急」という型があります。&lt;br /&gt;
教師が授業の展開を考えるときにもどちらかを基本形として考えていらっしゃると思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その型のスタイルをどうするのが効果的なのか、と考えることが、まずこの対談での内容と重なる部分。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でも、「部分と全体」という視点からは、もっと教育の根源に関わることがつながっています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時折行われるテストで子ども達が点数をとれる、それで先生や親にほめられる、友達に対して優越感を得られる、という構図は、そのまま教師とか、学校とか、市町村レベルでも変わらないですよね。全国都道府県の中で学力テストの平均点がトップになったとか、そういうことで一喜一憂していますから。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その時その時に評価されたことで喜んだり悲しんだりするのは、人間の本性でもあるのでしょう。&lt;br /&gt;
だからそのこと自体はきっとずっとこのままですよね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ、問題にしなければならないのは、それが「子供の成長」「みんなにとって生き生きと暮らせる社会の形成」という大きな流れと、あまりに解離・分断されてしまっているということです。本末転倒になってしまっているように思うんです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
家庭教師をしていて、特に中学校・高等学校の中間テスト・期末テストで多かったのが、ふだん使っている問題集やプリントと、ほとんど同じ問題を出題することが非常に多かったこと。極端な場合は、数学で教科書の章末問題を完全にそのまま出題する中学３年生の先生がいらしたこと。その学校の生徒は解法の途中を書く欄のない解答欄に、暗記していた数字などだけを書けばいい。だから学年の平均点は９５点前後でした。でも、学力テストや模擬試験だと県の平均をうんと下回る・・・当然ですよね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まあ、それは極端な例ですが、あれほど入試ではカンニングや問題漏洩がニュースとなり批判されるのに、どうしてこういうことは堂々と行われているのだろうと不思議に思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そりゃ「普段から授業をきちんと受けて、課題をこなしている生徒がむくわれるように」という配慮からのことだという意図も分かりますが、それによって、解き方を覚えている問題ならニッコリ笑って解けるけど、ちょっとでも変えられたら全く歯がたたない・・・というのでは、本当に教育といえるのか？？？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
確かに、点数ばかりで先生や学校を評価し、厳しく注文をすけてくる上かや世間からの圧力は、尋常でない場合もあります。そういう地域などの先生方は、自分達の身を守る為に、そうするしかないのでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でも、そうすることによって、肝心の子ども達の生きる力は確実に未発達になりますよね。&lt;br /&gt;
場面場面のパンチのある描写しかない作品が、一時的に人気作になってもすぐに飽きられて忘れ去られるのと同じです。&lt;br /&gt;
一発芸で大流行した芸人さんで、あっというまに消えていった人達などもそうですよね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのあたりの問題が、今回載せた先生の最後の言葉にあらわれていると思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;上原&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;　そう。子どもが喜べばいい&amp;hellip;&amp;hellip;&amp;hellip;それは、わかる。われわれの知りたいのは、子どもが喜んだのは、作者が何をやり、どんな仕組をしたから喜んだのか、だとか、子どもが作りあげようとする構造と作者が考えていた作品の構造とがどこかでピタリとあったんだ、そんなふうに思い、その分析をやりたいのです。また、しなけれれぱならない仕事だと思う。&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;</description> 
      <link>http://jigentai.blog.shinobi.jp/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E4%BA%BA%E3%83%BB%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E3%81%A3%E5%AD%90/%E3%80%8C%E5%AF%BE%E8%AB%87%E3%80%80%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E8%BC%9D%E7%94%B7%E3%80%80%C3%97%E3%80%80%E9%87%91%E5%9F%8E%E5%93%B2%E5%A4%AB%EF%BC%88%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%BD%9C%E8%80%85%EF%BC%89%E2%91%A3</link> 
    </item>

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