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上原輝男記念会 上原先生著書からの語録

「上原輝男記念会 上原先生語録集」では元玉川大学教授、上原輝男(文学博士 専攻 心意伝承学)の語録を紹介しています。 非常に多岐に渡っていますが、先生が生涯をかけて探求された、この風土、歴史、文化に根付いた<日本人>ということですべては繋がっています。 多様な価値観によってふだんの生活も国際社会での関りも難しさをます現代社会において、先生の語録は大きなヒントになると考えています。

心に響く小学校カリキュラム

心に響く小学校カリキュラム
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感情教育論 昭和58年 学陽書房

小学校のカリキュラムは知的になりすぎている。小学生が学びたいのは知的対象としての言語ではなく心の使い方である。人の子が人としてたち交わるための心の向け方配り方を求めている。これが年齢層に時ところをわきまえた対応体ができるのを世間に期待しているのである。またそれを誰よりも喜び安心するのはその子の親なのである。 p77
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個人ブログで、絵本やアニメの教育力についてとりあげてきています。
今朝の更新で、寄せて頂いたコメントに基づきながら、そのことについて再度触れています。

この感情教育論の言葉も、そうしたことと密接に関わっている内容です。

昭和58年の段階で先生がこうした指摘をされていた・・・でも学校教育はますますテスト対策の名のもとに知的になり、社会の要請として現実対応のスキル教育の方向になり続けました。

そうした教育を受けた世代が、今社会人となってコミュニケーションで悩む、現実対応に苦慮して心身を病んでしまう・・・学校の先生自身がボロボロになってしまっています。

それでもこの状況を放置し続け、現実意識に突き進むのか・・・・小学校本来のことに立ち戻るのか・・・学校教育の存亡の大問題です!

参考
子供の時に影響をうけたもの②
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12845851153.html
学校の授業教材との決定的な違いについて考えてみました。
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心意伝承の解明が目的 ~芸能研究はあくまでも材料~

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「心意伝承の研究 芸能編」より
昭和62年1月16日 桜楓社

 全体を蔽って、(芸能篇)としたが、決して芸能研究を目的とする謂からではなくて、あくまで、本書における心意伝承研究の素材が芸能に限定されたことを示したまでである。(緒言より)

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これは3月18日のブログ記事 
上原輝男の最大関心事 <日本人>って何だろう
でとりあげた事と同じような内容の言葉です。

こうした先生の言葉を繰り返し紹介するのも、そこがはっきりとしていないと、ここでどのような言葉を紹介しても、「自分の生き様とは関係ない」と思われて、そこでオシマイになってしまう恐れがあるからです。

西洋的合理主義が徹底したこともあってか、どうしても今の世の中は
「・・・のため」
「・・・に役に立つ」
ということが明確になっていないと多くの人達の意識にひっかからないんですよね。

ですから、ネットにあふれる情報の多くも、いかにシンプルに分かりやすくがポイントとされています。

長い文章はダメ、とか、動画も短く とか・・・・・

好きなアニメや映画でも早送り再生で済ます人が増えている時代ですから、現代社会の常識から外れた、古来からの<日本人>が受け継いできた無意識の世界の話題などを、長々と書かれてもなかなか読んではいただけない。


しかし「心意伝承」は誰もの無意識の中にも共通にあるもの・・・感情やイメージの動き方のクセも含んで・・・ということですから、あらゆる人達にとって、関りの深いものです。

それこそ普通の人間関係などそうです。
心で悩んでいる人達も、こうした無意識のところから、何が自然で何が不自然なのかを再確認することには大きな意味があります。

子育ても教育も福祉も、人間の成長と一体のことですから、かならず必要です。

芸術や作家などの創作活動の方々にも人間の深い心への共感や感動を感じることは、、まさしく心意伝承との響き合いです。

商業活動・経済活動等々もそうですよね。人間が相手なのですから、どのようなことが響くのか・・・・


そのようなことをあげたらきりがありません。

先生は心意伝承が比較的はっきりと形になってあらわれたものとして歌舞伎などの古典芸能に素材を求めました。
「芸談の研究」「心意伝承の研究」「かぶき十話」等々は、歌舞伎の内容を知らないとはっきりいってよく分からないことが多々あります。そういう場合でも、とりあえず分からないところはどんどん読み飛ばしてもいいと思います。

その中で、ところどころ書いてある「心意伝承」の部分を拾い読みして、ご自身の生活や心とてらしあわせながらお読みください。
先生の文は、格調高いといいますか・・・敢えてややこしい言い回しをしているところもあって分かりにくいのですが、だからこそ逆に「分かろう」とはしないで、「こうかな?」って自分と照らし合わせて自由に考えてみるのが、一番面白い読み方になると思います。


*著書の言葉よりもずっと分かりやすいのが、講義録や会議録などでの 言葉で話された記録 です。
それは別ブログ「たぬきの館 現代に生きる上原輝男」で紹介しています。

なるべくこちらのブログの内容とリンクさせるようにしていますので、関連記事を照らし合わせながらお読みくださると、みなさんとの接点が様々な形でみえてくると思います。

心意伝承の世界を意識することの、日常的な意義の一つは「つぎ」への意識世界をより深めるためです。
上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー11
「次への意識」
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12845749543.html

日本人の二元論 両義性が感覚の基本 

たまたま昨日、山梨大学名誉教授であり、上原輝男記念会の専門委員でもある須貝千里先生と語り合える時間に恵まれました。
その中で盛んに先生から出ていたのが「二進法のもともとの発想」に関してでした。

そのこととつながりの深い文があったので紹介します
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「心意伝承の研究 芸能編」より
昭和62年1月16日 桜楓社

「うそはまことの骨、まことはうその皮」と喝破できむ江戸時代の感性は失われていなかったのかもしれぬ。 と実、陰と陽、表と裏、内と外、聖と俗、貴と賤、公と私、等々日本式の二元論は、何も、演劇改良の時期に思い ついたわけではない。もともと根強く日本人の心理深層に巣喰っていたものといわねばならない。たまたま、語句的言い慣わしに従って先の二元名辞を例示したが、これを次のように整理し直してみると、

虚ー実
| |
陰ー陽
| |
裏ー表
| |
内ー外
| |
俗ー聖
| |
賤ー貴
| |
私ー公

の如くなり、その共通対応に意識の整合性を見出すことが容易である。

・・・・・・ハレの日の「客人 (まれびと)」がケの日には「乞食人(ほかいびと)」となる両義性が日本人の感覚には流れているといわねばならない。 簡単にいうと、歓迎され愛される神は、また忌避され追われる鬼である両義性を感覚の基本として具有していると との追求がしてみたいのである。(P230)


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デジタル思考・・・「0と1」からなる二進法・・・は現代人にはどのように受け止められているのでしょう。
きちんとした調査をしたわけではないですが、
「0と1の 二つしかない」 ・・・目に見える存在だけが存在 みえない世界などない かんがえたくない
「0か1か の二つにひとつ」・・・両極端な発想で、どちらかになる。極振りで間がない
という傾向が日々強まっているのではないでしょうか。

その一例が、好きな漫画でも音楽でもアニメでも「流しよみ」「早送り再生」をする傾向なのだと思います。
「その世界を味わい尽くす」のでなないんですよね。核心と思われる部分を知る事ができればいい。
それ以外は関係ないものとして切り捨てる、という発想です。

「抽象化」といえば聞こえはいいですが、本来「抽象化」は「具象化」とワンセットであり、一度あらゆる部分を切り捨てたからこそ、逆により幅広い具体的なこととつなげていける・・・「普遍化」につながっていくわけです。

それを学ぶというのが、義務教育段階での「数学」の大切な基本姿勢なのだと思います。
世界観の広げ方そのもの・・・ですから、数学は人間理解・古典や文革の世界を深く理解し、共振・共鳴していく上でも大切な素養になると考えているのです。

上原先生が中学年から論理思考、というのも単に理数教科が得意になるため、という現実的な利益から考えたわけではありません。個々人の抱いているイメージ・思い込み・まとわりついている感情 などから一度切り離して抽象化することで、爆発的に多くのこととのつながりがみえてくる・・・折口先生の大切にされた「類化性能」です。(みかけ上異なるものの裏側に関連を見出す能力のこと)


昨日、須貝先生が強調されていたのは、二進法は「0と1だけという世界観」ではなく「0と1で、あらゆる世界を表すことができる」さらには「形としてあらわせたものの、さらに向こう側には形にならない世界がある」という発想がもともとはあったんだということです。

それが仏教的にいえば「虚空の世界」。数学的にいえば「虚数」の世界ですね。どちらにも「虚」の字が入っているのが興味深いところです。



先の著書のことを、子供向けには

「あれか これか」ではなく「あれも これも」という発想をとらせるということだよ

というのも上原先生が月例会で話されていました。私の教室の全面にはこの言葉を掲示していました。

西洋的な合理的思考にそまった現代人の常識からすれば「相反する・矛盾するものが同時に存在」というのは奇異に感じるでしょうね。「どっちかでしょ、両方同時なんてありえなくね?」と。

でもそれを平気にやって昔から生活していたのが日本人の特徴です。
これは、それがいいか悪いかではなく、それが日本人の心の奥底にしみついている発想の仕方であり、生き方なんです。

それが表層的な部分だけは、急激に「矛盾は同時にはありえない。どちらかをはっきりさせなければならない」となってきたわけです。
「あいまいさは日本人の悪いクセだ」
「そんなわけのわからないことを言っていたら、西洋人と対等にやりとりができない。」

その結果「0と1」の間には無限の段階があるのに・・・二進法ではすべての数を表せるという広がりをもつのに・・・極端に抽象化しているからこそ、みえない世界も含めてあらゆる世界を内包しているのに・・・・それらすべてを切り捨ててしまっているのです。

だから
人の心についても表層的にしか考えない、その裏側を感じとれない、感じとろうともしない。
地位やお金のように目に見えるような物質的なものにしか価値を見いだせない
卑怯なろうなそんなのは気にしない 自分だけが得をするという結果を出せればいいんだ
・・・・・
そんなことで、他人を潰しながら、実は自分も他人から潰されるという生活を送っているんですよね。

「あれかこれか」ですから生き残るのはどちらか一方だけ
「あれももれも」なら共存共栄

今回は「虚」の部分には十分ふれられませんでしたが、本当はそのところこそが人間にとって大切な部分です。

*個人ブログ「たぬきの館」での今朝の上原先生の言葉は「絵本」に関してです。
仏の真理はことばや文字で表すことができない、という真言密教の観点などから絵本について語っています。
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12845588308.html
あわせてお読みください。

「馬の研究」からの広がり

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日本人の心をほどく かぶき十話 より  
平成7年5月13月 オリジン社


いまは一生懸命になって馬のことばっかり調べている。でも、私は馬が専門だと思ってはいないのである。馬と日本人が一緒になって生活していた時代があるはずだと。日本人騎馬民族説さえあるのに、その日本人がなぜ馬を捨てた。その日本人がなぜこんなふうに変わり得るのかということが知りたい。それを知りたい、知りたいというものの、同時に、わが身体の中で何が響いているのか、どこに私を連れていくのかということが、やっぱりこの年になってもなおかつ忘れられないのである。
(中略)
 いままでは自分たちが学んできた知識体系を使ってやってきたけれども、もはやそれだけを武器としていたら、何をやっていいのか分からなくなってしまったというのが今日ではないかと言いたいのである。(P172)

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別の原稿でも書いたことがあるのですが、先生の著書の分かりにくいところは、歌舞伎や民俗学などでとりあげた話題に対して、それがどんなこととつながるのか、をほとんど示さないところにあります。
だから読み手は「だから何なの?さっぱりわからない」となってしまう。関係のない話をされているような気になってしまって、本を閉じてしまうんですよね。

*というより、本を開こうとも思ってもらえない。昨日も書いたことですが、この「かぶき十話」にしても「日本人の心をほどく」とタイトルにあっても、やっぱり「かぶきの本?自分には関係ない」と手に取ってもらえない。
ましてや、現代のようにネット検索で本をさがす際には、心に関心はあっても、そうした本を探すのに「かぶき」でキーワード検索する人なんていませんよね。


それでも先生が「こういうこととつながる」と意図的に明記しなかったのは、おそらく明記したとたんに、それが「縛り」になってしまう、それを恐れていたからなのだと思います。「ああ、そういうこととつながるのね」で終わりにされてしまう。
本当はそれ以上、様々なことにつながるのに、分かった気になってしまうことで、いろんな可能性がすべて切り捨てられてしまう。

先生がなくなってずいぶんたちますが、世の中の発想は可能性を狭める方向にどんどん進んでいます。
ますます先生の著書は受け付けられなくなっていくでしょうね。



そういうことからすると、重要なのは後半にある「いままでは自分たちが学んできた知識体系を使ってやってきた」以降の部分ではないかと考えます。

どうしても「知識体系」というと一般には「西洋流の学問体系」・・・分かりやすくいえば「因果関係がすっきりと明確」に整理されているもの、が思いうかべられてしまうのではないでしょうか。

その影響を受けているのでしょう、子ども達も
「この勉強をやっても大人だってそれを使って生活してるの?」
「これが分かったから、できるようになったからって、それが何なの?
何の役にもたたないじゃない」

知的好奇心からの質問であればまだいいのですが、単に勉強なんかしたくないという気持ちの表れである場合も多いですよね。そして改めてこんな風に聞かれると先生も親も答えに困ってしまう。
苦しまぎれに「つべこべいわずにやれ。そうでないと言い学校、いい仕事につけないぞ」というのが関の山。

これでは「学び」は目的ではなくて、完全に手段です。
まあ、実態として子ども達が学ばされているのは中身はカラッポでもいいからとにかく点数を少しでもあげること、というのが少なくない。大人たちが評価されるための道具になってしまっているのですから、子ども達にこんなツッコミをされてもきちんとした姿勢を示せないのは当然なのかもです。


上原先生の著書を読む時に、直接話題になっていることに限定しない というのを繰り返し述べているのも、先生の知識体系の発想が現代人の常識とは全く違うからです。

それは、特に江戸時代あたりまでは、江戸庶民なども普通にやっていた「知識体系」の作り方。
「〇〇 ならば 〇〇」という直線的な因果関係でとらえないんですよね。
様々な方向に立体的にネットワークが広がり、手を結んでいる。だから「馬」からみられた日本人の発想が、馬とは関係のない様々な分野とつながっていくわけです。

それは人間の大脳の中のネットワークとも似ているかもしれません。本当に優秀な人間になっていくというのは、どれだけ複雑なネットワークが構築できるかとも言い換えられるそうですから。

だから学習指導要領だって、「教科内容」を学んだらそこで終わり、という形はとっていないわけです。教科内容はあくまでも「教材」。その会得が最終目標ではない。最終目標は人間の成長そのものに寄与していくことです。

それが、テスト対策が目的になってしまっているから、それ以上の広がりを学校も扱わないし、子ども達も気にしない。テストが終ればサッサと忘れる。


*もちろんそうでない、まっとうな教育をしようという心ある先生もたくさんいらっしゃいます。
ただ、そういう先生方がふくらみをもたせる授業をしようとすると、「そんな暇があったらドリルをやらせろ」というようなクレームが親達からくるんですよね。子どもからも「先生、それってテストにでるの?でないならやらない」っていう声がでるようになってきてしまっています。


「すぐ役に立つものは、すぐ役に立たなくなる。」という有名な言葉があります。
大学などで専門以外の「教養課程」がおこあれているのも、今の自分と「関係ある」ということばかりでは、多様な社会に対応していけない、真に自分の力を伸ばせない、ということにあるのだと思います。
「関係ない」と思っていたことが、数十年後に自分の救いになるなんていうことを還暦すぎた私も何度も経験しています。

上原先生もそうですが、国語教育で感情やイメージを非常に重視していた一方で、それらを豊かにするためにも中学年以降は「論理思考」「数理思考」をしっかりと扱うというのを強調されていました。

いわゆる「理系的素養」「文系的素養」すべてが統合され同時に働いていくのが人間ということです。



☆今回は詳しくふれませんでしたが、「馬」と「日本人」ということの一つの表われが、最近大きな話題になった、アニメ&ゲームの「ウマ娘プリティダービー」です。競走馬をモチーフにしたウマ娘と呼ばれる、人間とはちょっと違った存在の少女達を描いています。

このアニメ、その設定から逆に熱心な競馬ファンの方々の多くからそっぽを向かれてたいんですよね。
視聴してみた競馬ファンの方々からもボロクソな意見が多かったです。

面白いのは競走馬に詳しくない人達の方が「競馬の知識」「競馬界の常識」等々の縛りがない分、自分の内なる感覚に自然に身き合ってみることができていたんだと思います。それで評判があがり、あとから熱心な競馬ファンの方々も二様の深さを再確認し、人気が急上昇。その後出たゲームは社会現象とまでいわれるようになりました。

これも背景には、日本人に深く刻まれていた「馬」に対しての意識がはたらいていたのだと思います。
上原先生が生きていたら、ウマ娘についてどんな発言をしたんだろうな・・・とついつい妄想してしまいます。

「日本人の心の偏向」を探る

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日本人の心をほどく かぶき十話 より  
平成7年5月13月 オリジン社

歌舞伎は日本人の心の偏向
 なぜ私が歌舞伎を取り上げるかというと、能(謡曲)よりも歌舞伎の方が知識人がつくっていないという理由からである。庶民がつくったものであるから、理屈があってつくっているわけではない。つまり、偏向がまま、偏りのまま、好きな放題につくってきたということである。だから、学問的に処理する場合、一番自然な形でいい材料があるというふうに考えている。   p13

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私(駿煌会主宰 HN 虚空)がしばしば引用している言葉です。

歌舞伎の書物ではありますが、「歌舞伎解説」が目的ではないということです。
解明しようとしているのは「日本人の心の偏向」・・・日本人の特徴です。

ですから「歌舞伎の話なのね」「歌舞伎?自分には関係ない」という姿勢では、最も肝心な部分が伝わらない。
私が常々もったいないと思っているのは、この「かぶき十話」は様々な人達にとって関りの深いことが満載なのに、「かぶきの本」ということだけで、一般の方々には手にもとってもらえない、仮に手をとって頂けても、先のような意識で、みなさんとは切り離されて読まれてしまう、ということです。


私はこの歌舞伎を現代に素直に当てはめると「漫画」「アニメ」「(ストーリーものの)ゲーム」などになるだろうという発想で読んでいます。これらのものを通して、上原先生の追い続けていた<日本人の根底にあるもの>のが垣間見られるのではないか、ということです。

実際に駿煌会の若者たちや、家庭教師での中高生、大学生、斜偉人の人達と漫画やアニメなどの話になることが多いのですが、それらの背景にある日本人の偏向性に対して強い興味を抱いてくれる方々は多いです。

国語の文学教材や古典などとの接点、また私の場合は、駿煌会で数学が専門のHN諷虹君などと「理数」の話と「アニメ」の話と「上原先生の説くに古来からの日本人の心」はとっても相性がいいんですよね。

数学的な論理の世界も、物理学などの自然科学も、根底にあるのは「世の中の真理」の探究。
それを言葉で行えば「心意伝承」「集合的無意識」となり
数式・図式で行えば「数学」「自然科学」になるということですから。

さらにいえば、上原先生は「論理」と「感情・イメージ」は別々のものとはとらえていません。
人間の中では密接に関わり合っているものどうしだと。

そのせめぎあいが顕著に表面化し、子ども達の日常を最新の注意をもって見守らなければならないのが小学校の中学年・・・特に4年生あたりからです。

心やイメージは個人単位だけではなく、民族単位でも偏り「偏向性」がある。
その偏りを積極的に活かしつつ、社会のなかでみんなが共存共栄していけるか・・・そうした姿も歌舞伎の向こう側に垣間見られるというだけではありません。

歌舞伎が「型」を重視するということにおいて、どうして「型」(様式)が芝居という感情・イメージの世界とつながるのかということの解明は、数学・理数といういわゆる理系分野の視点もいれながら、文系分野も考えるということそのものだと、私はとらえています。

この発想は、教師であれば「心に響く授業」を実践するための重要なヒントとなります。
常識の枠にとらわれなければ、見かけ上はまるで関係なさそうな分野のことが、様々な分野と響き合い、子ども達の中にネットワークを形成していきます。



そうした教育の段階がまさに小学校の先生の役割なんだと上原先生は主張している。
だから「学級担任制」が大切だ・・・という話になっていくわけです。
一人の子ども達が各教科や分野、そして娯楽に対してどのように響いているかを総合的に把握できるのが学級担任。何もそれぞれの分野の専門家である必要はないんです。むしろ専門がはっきりしているほど垣根をつくることを働きかけてしまう危険もありますから。

小学校の先生は一人一人の子ども達の「まるごと全体」を把握し、その中で次のステップに進めそうな分野、つながりを見出せそうな分野をみつけ、そこに適切な刺激を与え紗絵すればいいんです。

そうしたら勝手に子ども達は伸びていくし、そういった土台を小学校段階で整えてもらえれば、中学生以降の知的学習も各教科を統合した形で結び付けながら伸びていくことが期待できます。


「たぬきの館」の方でも書いたことですが先生が「テレビ作家」とか、あるいは「歌舞伎」を話題にして書いている文章でも、そのような枠にとらわれて読んだら、それっきりなんですよね。

先生の言葉にふれるコツは、見た目の言葉にとらわれないで、みなさんの中でどんどん他の分野との接点を見いだしあてはめてみる、
上原先生が説いているのは上原個人の思想ではありません。
日本人(人間)の根源の研究ですから誰にでも無意識の中にあることです。

ですから、「人々の心に深く響いて欲しい」という願いをもって創作活動をされている方々、あるいは商品開発などの経済活動をされている方々、教育に限らず福祉分野などで人と関わる方々・・・・子育てをしている親御さん達・・・・先生の説かれている内容は、全ての人達にとって、大いに参考になることの宝庫です。


参考)先の文に先立ち、この著書の基本姿勢について、線背はこのように書いています。
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日本人の心の仕組みと整えをほどく
 この本の角書に"日本人の心をほどく"とつけたところがミソで、最初の段階ではもっと丁寧に「日本人の心の仕組みと整えをほどくかぶき十話」と、こういうデーマを考えた。・・・・・
日本人の心は、どんなふうに仕組まれているのだろうか、あるいは整えられているんだろうかという問題を考えてみたいということである。

 歌舞伎の解説・ガイドブックの類はたくさん出版されている。また、ここでそれを学問的に歌舞伎 の成立史だとか、あるいは歌舞伎の芸の説明をすることは省略する。

歌舞伎の成立を取り扱うことに よって日本人の心をほどいてみようという、そういう開き直りのつもりもないが、ごく自然な形で、 日本人の心がどんなふうにつくられてきているのかを問うてみたいと思っている。だから、先年まで 「心の民俗学」というような名で呼ぼうとしたことがあった。
p10

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本日更新のブログ「たぬきの館」
上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー9 「テレビ作家の教育力」
もあわせてご覧ください。
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12845368943.html

プロフィール

HN:
上原輝男記念会
性別:
非公開
自己紹介:
本会は、上原輝男の功績を顕彰し、民俗学・国語教育学の発展に寄与する研究と交流を目的として設立されました。

ここでは上原先生が探求された事柄を、広く一般の方々にも知って頂くために、先生のあらゆる分野の語録を紹介しています。

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