今回は長めに紹介しています。
あの当時はストーリーもの子ど向けテレビ番組でも放送話数は今と違って非常に多かったという背景の違いがあることを念頭に入れてお読みください。
今にあてはめると、漫画の連載にあてはまるような話とも言えます。
そして「教育」の「今」と「これから」を考える上での重大なカギもかくれていると思います。
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(一場面から次の楊面への移り変わりをどのように考えているか、
完全に前の場面と次の場面が切断されていて、ほとんど無関係なものほど喜ぶという意味なのか、
あるいは、どこかで、つながりを持たせてあるということなのか。)
金城
無関係なほど喜ぶのではないでしょうか。そこに意外性があります
上原
それそれ。その意外性ということになると、さっきのパンチの問題につながってくると思うのだけれど。
金城
非富に対立関係のある二人の人物がいたとするでしょう。その場合、こういうわけで喧嘩するというのではなく、まず、アクションのシーンがあって、そのうち二人がなにゆえにそうなったかのシーンがあるのです。その行きかたの方が、パンチがあるのです。アテンションゲッターといって、まず、子どもが、アーッと驚く。
そこで引き込んでそれから自分の言おうとするテーマにはいるのです。段取りをつけるより、意外性でもっていかないと、子どもたちはついてきませんね。
たとえば、いまの子どもは、ノラクロだとか、冒険ダン吉なんかおもしろくないと言いますね。それは、パーッと石を投げるでしょう。すると石が空間に止っているのです。いまの浸画は、パーツと空間にスピードを持って流れている描写がありますね。このように子どもの見方自体がかわってきている。それをパンチがあるというのです。
上原
今回の、われわれの特集から言えば、そんなところに子どもの場の捉え方があるというふうに問題にしていかねばならないと思うのです。子どもの導の捉え方自体がいっも動いているということ、そう捉えるべきではないかと、このことは思いますね。
(一つ一つの場面が強烈でなくてはならないが、それが全体的な何かを持だなくてはならない
つまり場面の継続と切断の問題)
金城
それは、パンチだとかアクションものに子どもが飽きて来て、子ども自体がハート的な内容を喜ぶようになっているということだと思う。たとえば″巨人の星″という浸画は、ひとりの貧しい少年の人間成長のドラマなのです。’男の魂″みたいな物語です。ああいったものに今日かえりつつあるということも言い得ます。だから、僕は、このごろ、たいへんしつっこい性格をもっている男だとか、ダメな奴が苦労して冒険をしていく物語をパンチを忘れないで書いています。
上原
だから、そこのところが聞きたいのです。一つの成長のプロセスと言ったでしょう。つまり、片方では、長い楊面を意諏している。そして、その中における一つ一つのカットはたいへん短かくなくてはいけないということ。それは、どんなことなのだろう。
見る→読む と移り変わると言ったが、それはそれとして認めたいと思います。しかし、私は、それを。子どもの場面のとりかたの違いというふうに考えていきたいのです。絵本が好まれるか、文章が好まれるかという言い方ではなくて、子どもの頭の中にできてくる場面のとりかたが移動しつつあるというふうに考えてやりたいのです。
さっきの話にもどりますけれど、全体的過程というものと部分的な一つ一つの絵とのつながり関係というところに、何か秘密が隠れているような気がするのです。
・・・・子どもの頭の中でイメージの構成をやるやり方が、変わってくるのではないかと思うのです。
ストーリーを考えるということは、過程を考えるということ、全体的な継続を考えるということは、パンチのきいたものがほしい・・・切断されたものを必要とすることは、これは矛盾する。一つ一つの場面が切り離されているほうが気持ちがいい・・・しかし、全体的なストーリーを必要とする。これは、やはり、相矛盾する。
金城
パンチとか場面転換を早くとかいうのは、手法ですよね。全体的なものを表現していく上での今様の手法だということです。
上原
今様ということは、いまの子どもに合うということですね。では、それは、今の子どもの場面のとり方が、そういうふうであることを、金城さんは、想定しているのですね。
金城
そうです。
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今、アニメの場合だと放送話数が非常に短くなっているというのは昨日もふれました。
だから一つ一つのエピソード、一人一人のキャラの背景を深く描けない。あっというまに12話で最終回になってしまいますから。
そしてそれすらも動画再生や録画視聴で早送り・飛ばし飛ばしという見方をする方が増えている。
昭和の頃は録画なんていうのはなかったですから、好きな番組などはそれこそ気を入れて画面にくぎ付けになって、集中してみていたんですよね。見逃したり、聞き逃したりしたら、もうそれをとりかえせないということもあって。
テンポが速い上に、めまぐるしくストーリーが変かしていく、それをさらに早送りや飛ばし飛ばしでみている。
漫画をよむ際にもページのめくりかたが非常に早い人が多い。読み味わうというよりパッとみての印象ですぐに次のページをめくる。
短時間での動画サイトをつぎからつぎへと観まくる
この対談が行われた当時とは比べ物にならないくらいに、パンチのきいた断片をキャッチしている、というのが今の子どもや若者たちのイメージの構成仕様になっているということなのでしょう。
それはそれでそうなっているのが実態なのだから、そこに合わせていかなければならないのは確かなことです。
テレビ作家も漫画家もその工夫で日々苦心しているのでしょうから。
子どもの成長・・・大人になっても本来は続く教育という営み・・・は、一回一回のテスト対策授業という意識に少なくとも子ども達はなっていると思います。
でも、本当の「教育者」は、今この教材を通して授業していることが、今後の人生にどう影響しているのかをしっかりとふまえつつ、一人一人の意識世界にどうしたらきちんと働きかけられるか、を意識して教壇に立てる存在でなければならないわけです。
断片的なことを好む、授業に集中し続ける持続時間が短い子ども達が増えている・・・・それでも子ども達に教育をしていかなければならない。しかも、生涯に有益という「持続性」をふまえた形で。
そういう現代社会の中で、ホンモノの人間教育をしていくという、相反することの両立のカギも、この上原先生と金城哲夫氏のやりとりには隠れているような気がするんですよね。
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