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上原輝男記念会 上原先生著書からの語録

「上原輝男記念会 上原先生語録集」では元玉川大学教授、上原輝男(文学博士 専攻 心意伝承学)の語録を紹介しています。 非常に多岐に渡っていますが、先生が生涯をかけて探求された、この風土、歴史、文化に根付いた<日本人>ということですべては繋がっています。 多様な価値観によってふだんの生活も国際社会での関りも難しさをます現代社会において、先生の語録は大きなヒントになると考えています。

「原爆」① ツイッター056補足

被爆体験を綴った先生の私小説「忘れ水物語」あとがきより

(丸木夫妻の描かれた絵をみての感想続き)
書かねばならぬことは、事実よりも、その事実に遭遇した人々の想念なのだ、と自覚させられた。

・・・以後、馬歳を重ねて四十余年、その間、肺癌にも罹り、いくらか人間の業のようなものが見えてきたといったら、生命冥加を知らぬ奴めがと、またまた死神を刺激することになるであろうか。

しかし、人は、生まれ変わり死に変わりすることが、生命の存続であると知ったからには、書き残されねばならぬことは、その凄絶さではなかった。その修羅ぶりでもなかった。
そんな時、ふと、巻頭に揚げた和歌が、その思いをまとめてくれたのである。

忘れぬる あしたの原の 忘れ水 行くかたしらぬ わがこころかな

・・・忘れても忘れ得ざるわがこころの秘めごとを、私は素直に書き綴ればよいんだ、と思った。それは一口に言って、幼な心に通う。・・・・・

*あとがきはまだまだ続きますが、今回はとりあえずここまでの掲載にします。
「忘れ水物語」上原輝男著 1989年 2月6日 第1刷発行 主婦の友社
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「我慢」 ツイッター 050補足

「我慢」というのは「我 おごる」と書くわけで、考えてみると、親が子供に「おにいちゃんだから、おねえちゃんだから、我慢しなさい」と言い、弟の方に向かって、あるいは妹の方に向かって、我慢しなさいとは言っていないことから考えても、つまり、高き位置にいる者が、高き位置にいるんだから、それを許してやれというのが本音だと思う。
(かぶき十話 P,12)

→(編集者)現代社会は他人に対しては過度に「我慢を強いる」ことをしながら、自分は「欲望のままにやりたいほうだい」という傾向の人間が目立ちます。「やったもの勝ち」なんていうのはその典型。
自分を高める「気位」の意識とつながって自分に向けるならいざ知らず、結局は自分の思い通りにしたいがために、それを妨げる行為に対して他人には我慢することを当然のごとくに要求するという極めて幼稚な意識です。
子どもに対して「結果を出すために 我慢」を強いる場合も、口では「お前の将来を思ってのことなのだ」と言いつつ、本音は大人の側の利益のためということも多いわけで・・・子どもはちゃんとそれを見抜いています。

もっとも勤務評定などで結果を出さないと上からヤイヤイ言われ、立場が保証されなくなっている学校側を一方的に責めるわけにはいかないのもまた事実。
ホンモノの教育をしようとすればするほど、親からも行政・政治からも批判される世の中ですから。

「頑張る」 ツイッター 049補足

どうしてあんなに日本人は頑張ろう、頑張ろうというんだろうと思う。何かあると、頑張ろうとやる。ところが私たちが子供の時分には、頑張ろうなんて言葉はあまり聞いたことがない。頑張るということは醜いことだ(関西では「我滅(ガメツ)い」という意味で)という気持ちが、どこかにあったような気がする。ところが、いまは老いも若きも男も女も「頑張ろう」という。
「頑張る」というのは「我を言い立てる」ということで、そんないい言葉だと思われたり、すばらしい言葉であるわけはなかった。だから先の「我滅い」と同義語になるのであろう。
(かぶき十話 P,11)

→(編集者)ネット上で 「がんばれ!」と言うだけでは動けない子どもにかける言葉 http://benesse.jp/kosodate/201807/20180710-1.html というのを特集しているサイトをみかけたので、先生の発現も掲載した次第です。
 ネットで「頑張れ」等々の言葉を検索すると、マイナス面を紹介しているサイトが結構でてきます。
 私自身(編者)もそうでしたが、「頑張れ」と言われて前向きになれる人間に対してはいいのかもしれませんが、逆に自己否定になってしまう人間も少なくないということは是非知って欲しいものです。
 特に「競争原理」「成果主義」の世の中は要注意。

 仮に結果を求めて頑張れと言われて、必死に結果を出せた人間でも、それを出し続けることを要求されると、ある時点で突然破綻がきます。

「馬」②ツイッター034補足


聞いたんだけど、日本人は競馬好きだが、中でも大好きなのが『差し馬』なんだって。『真っ直ぐ』という事に『示唆性』を感じるんでしょうね。・・・
 勝ち負けじゃないのよ。『走ってどうする』はないんだよ。あの走りの姿『ひたすら走る姿』が見たいんだよ。(平成八年三月例会)

上原先生の晩年は「馬」のイメージ探求にかなり費やされていました。
馬に関してふれている記述も多数残っています。
その中から今回のツイッターに関連が深いと思われる一文を紹介します。

「曽我の雨・牛若の衣装 ~心意伝承の残像~」
P,205
 まだ断定は許されないが、われわれの先祖は、少くとも神は馬に乗って来ると思っていた。-あるいは、馬は神を乗せて現われる。そのいずれかに思う時代は、相当に長かったのである。
 
少々うるさくなるが、ここを明らかにしなければ先に進めない。私も迂闊に、神は馬に乗ってくるとか、馬は神を乗せて現われるとか言ったが、一体、どこから、どこへ来るのか、現われるのか。人間のイメージは無責任で、論理的ではない。

しかし、まちがいなく、このイメージが方向感覚を持っていることは確かだから、来るし、現われるし、どこかへ向かっている。そのどこかを捨ててしまって、いずれが早いかというのが現代にまで競馬となって残ったといえる。

しかしこの競馬だって、論理的に考えるとおかしいもので、いずれが早いかで、勝敗の問題にすりかえていることになるが、ゴールがもう半周あったら、その決着はちがっている。

結局人開がみているのは、勝敗のゴールインよりも、そのお目当ての馬の走りをみているにちがいない。ある方向から現われ、ある方向へ走り去っていく。それが人開のイメージを最も刺激するのである。

早さとは本当に、距離を時問で割ることであろうか。


 早さは疾風に比す形容であって、疾風にここからあそこまでがないのと等しく、強いて言うなら、二番手はもはやはやくもなければ、走りのイメージではない。先頭を切る。初の、初めての感動を伴ってこそ走りだといえる。


(編者注 上原先生は特に競走馬の世界には触れていたわけではないので、実際に競走馬に詳しい方々からすればこの内容が的を得ているかどうかは分かりません。
 もしも競走馬に詳しい方からして、異論があった時には、無意識の世界で人間が馬を通して何を感じ取っていたのだろうということの推察という趣旨をご理解ください) 

次回③としては「馬に導かれるイメージ世界」という観点の語録を予定しています。

「国語の授業はこうする 用具言語編」  (ツイッター上原語録014補足)

第一部 国語学習の目的と態度 
五 言語作業補説
7、他教科教科書を読むことも国語科のうち
より
(P.43)
 私は国語科に『構え』の指導を導入すべきことを早くから提唱して来た(前巻「小学校の国語の授業はこうする―感情・思考・構え編」参照)。ここでの論旨の記号体系への指針と導入に則していうなら、『文体』の認識である。
 文体とは何かを教えよというのではない。われわれは、物の見方が改まる時、ことばが変わる習性を持っている。これは、成人したから気がつくのではない。物の言い方や修辞は補助手段ではない。物の見方(観点)、対処の仕方(対応姿勢)、世界定め(全体把握のありよう)によって、ことばは即応する。

*以下M・M 記述
「構え」というのは上原先生や児言態の教育観を考える上で非常に大きな意味を持つキーワードであるのですが、なかなか簡潔に説明することは難しいです。

基本的にはこの抜粋部分の最後 
『物の見方(観点)、対処の仕方(対応姿勢)、世界定め(全体把握のありよう)』
と深い部分で直結することからくる「生きる姿勢」というようなことなのですが、この中にある「世界定め」というのも(元は江戸時代の歌舞伎の世界で使われていた発想なんだそうですが)簡単には説明できない・・・でも重要なキーワードです。

☆世界定めに関連する児言態の研究報告が特集されているのは、
 雑誌『児童の言語生態研究』15号 (1996年)
  特集「子どもにとっての時間と空間」
です。

プロフィール

HN:
上原輝男記念会
性別:
非公開
自己紹介:
本会は、上原輝男の功績を顕彰し、民俗学・国語教育学の発展に寄与する研究と交流を目的として設立されました。

ここでは上原先生が探求された事柄を、広く一般の方々にも知って頂くために、先生のあらゆる分野の語録を紹介しています。

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