聞いたんだけど、日本人は競馬好きだが、中でも大好きなのが『差し馬』なんだって。『真っ直ぐ』という事に『示唆性』を感じるんでしょうね。・・・
勝ち負けじゃないのよ。『走ってどうする』はないんだよ。あの走りの姿『ひたすら走る姿』が見たいんだよ。(平成八年三月例会)
上原先生の晩年は「馬」のイメージ探求にかなり費やされていました。
馬に関してふれている記述も多数残っています。
その中から今回のツイッターに関連が深いと思われる一文を紹介します。
「曽我の雨・牛若の衣装 ~心意伝承の残像~」
P,205
まだ断定は許されないが、われわれの先祖は、少くとも神は馬に乗って来ると思っていた。-あるいは、馬は神を乗せて現われる。そのいずれかに思う時代は、相当に長かったのである。
少々うるさくなるが、ここを明らかにしなければ先に進めない。私も迂闊に、神は馬に乗ってくるとか、馬は神を乗せて現われるとか言ったが、一体、どこから、どこへ来るのか、現われるのか。人間のイメージは無責任で、論理的ではない。
しかし、まちがいなく、このイメージが方向感覚を持っていることは確かだから、来るし、現われるし、どこかへ向かっている。そのどこかを捨ててしまって、いずれが早いかというのが現代にまで競馬となって残ったといえる。
しかしこの競馬だって、論理的に考えるとおかしいもので、いずれが早いかで、勝敗の問題にすりかえていることになるが、ゴールがもう半周あったら、その決着はちがっている。
結局人開がみているのは、勝敗のゴールインよりも、そのお目当ての馬の走りをみているにちがいない。ある方向から現われ、ある方向へ走り去っていく。それが人開のイメージを最も刺激するのである。
早さとは本当に、距離を時問で割ることであろうか。
早さは疾風に比す形容であって、疾風にここからあそこまでがないのと等しく、強いて言うなら、二番手はもはやはやくもなければ、走りのイメージではない。先頭を切る。初の、初めての感動を伴ってこそ走りだといえる。
(編者注 上原先生は特に競走馬の世界には触れていたわけではないので、実際に競走馬に詳しい方々からすればこの内容が的を得ているかどうかは分かりません。
もしも競走馬に詳しい方からして、異論があった時には、無意識の世界で人間が馬を通して何を感じ取っていたのだろうということの推察という趣旨をご理解ください)
次回③としては「馬に導かれるイメージ世界」という観点の語録を予定しています。
PR