「序」からの抜粋です。原文で太字になっているところは太字にしました。
『国語の授業をうまくやることに疑いを持つ。われわれは子どもたちに学校ごっこをやる時の見本として示しているのではない。国語の力は、自己と対話する時以外は伸びてはいないものである。子どもたちを観客的位置に据えての興味や関心を募らせることは、既にわき道に連れ出してしまっている。
更に思えば、本書出版の遠因は、私自身の小学校一年生入学当初にさかのぽることができる気さえする。
私たちは、初めてのサイタサイタサクラガサイタの色刷り読本使用者である。ハナ、ハ卜、マメ、マスの黒ずんだ印象から、突然まぶしいほどの明るいはなやかさは、兄、姉たちに、子ども心にしても自慢した記憶がある。それは色彩から来る何かもあったろうが、その文章によって得た何かがあったはずである(勿論このことを、その時思ったわけではない)。その当時は先生がこの教科書によって何をどう教えられたか何も覚えていない。だが、いま思うことは、このサイタサイタサクラガサイタという五行十三字で、明るさを思い、はなやかさ、新鮮さが思えるという不思議さ―私は、小さい者へ、小学校の国語をそっとお前自身のものだよといって返してやり度い。そしてお前自身の感情なり思考なりの生い立ちとともに、国語を見守り度いと思うのである。
本書では、文部省学習指導要領-並びに、それに準拠する教科書や学習指導書をかなり手きびしく批判した。しかし、これは、学習指導要領を軽視しようとするものではなく、また教科書や学習指導書を疎んずるものでもない。これらのものは、時代とともにそれが変貌することを知っているからである。』
冒頭から太字で「国語の授業をうまくやることに疑いを持つ。」とありますが、もちろんこれは先生が授業の展開を軽視していたわけではありません。
以下、私(M・M)の思い出からの意見ですが、先生は大学時代の講義でも児言態の会合でも「上手に授業をやろうと思うな」ということを繰り返し強調されていました。
それよりも何故その授業を行うのかという、指導案でいえば単元設定の理由についての部分・・・それがきちんと定まれば授業のやり方は自然に整ってくるというようなことです。
実際に多くの現場では「得点力をあげるためにどう教えるか」ということに追われて、国語に限らず学校のカリキュラムがどう一人の人間の成長にかかわるのかを本気で考えようとしないで授業が行われているのが実情だと思います。
研究授業などの時には指導案を作成しなければならないから形式的に「単元設定の理由」を書くものの、場合によっては「教科書の教師用指導書を丸写しすればいいんだ」ということも横行しています。
児言態に入会し、合宿での研究授業の指導案作成は、そういった現場とは真逆でした。
作文分析などで児童の意識構造を浮き彫りにする作業から始まって、テーマの絞り込みにいたるまで数日間をかけてとことん話し合いがなされました。
そのようにして「単元設定の理由」を練り上げてから、やっと「本時の展開」になるわけですが多くの場合、それは夜中の0時をこえてやっと着手。指導案が完成するのは研究授業を行う当日の夜明け頃でした。
「そのような単元設定のための膨大な検討時間など確保できない」という実情もありましょうが、時にはそういったことをとことん突き詰めてみる・・・日常の授業に際しても日ごろから教育の本質も忘れない意識をもって子どもたちに接しているのか、という姿勢を忘れないことは可能だと思います。
昭和43年初版、上原先生が最初に出版されたものだと思います。(40歳代になりたての頃)
あとがき
ずいぶん、思い切ったことを書かせてもらった。まだ熟し切らぬ論考までも書き立てた。批難、反撃も充分に覚悟している。図々しいからでも喧嘩好きだからでもない。いま必要なのは、国語教育についての論争だとつくづく思うからである。だが、論争のためにする人さわがせをやったとは思っていない。
雨が水面を叩く場合も、淡雪が静かに水面に融ける時も、じっとわれわれは水面に目を注いで興味に思うことがあるのに、どうして、子どもの頭の中に浸透して行くことばの雨脚を見ようとしないのだろう。ある時期をおかなければ、その水嵩の増したことはわからない代物かもしれない。でも、それでは、われわれの仕事が勤まっているとは思われないために。この書を書いた。義務感というよりも、小さい者が生きて行く愛着のために書き綴った。
だから、この書は、小学校国語教育の解き明かしというよりも、その対象をどこに求めるかの方に向かっている。それも解説ふうに述べるほど乾いたものとはなっていないことも知っている。熱意で書かれた文章が読者を疲れさせることも知っている。しかし、対象が生きているのである。そして、いまもなおことばに反応し続け、成長しつつある。その反応が、その子のものであり、その子のことぱの経歴なのだと思う。
人間だれしも、この自分のことばの経歴上の失敗譚や疑問の一つや二つは持っているし、どういうものか、この一つや二つを長い問、誰にも言わず、子どもは胸に秘め続ける。きっと細かく分析が可能であったら、一つや二つと言わず、その連続であり、みごとにその子その子なりの経歴や累積の仕方を呈しているにちがいない。
…既に書いたが、われわれはそのために顕微鏡が使えるわけでもない。聴診器を持つ医者が羨ましい時もある。電子計算機が使えて、教室にそれが入る時はいつであろうか。などというより、われわれおとながこのさわがしい世の騒音からふと耳に蓋して、静かに自分と対話するとき、生きて行くわが身と、自分のことばの成長を思うことがある。そしていままた小さき者が、いじらしくも綴りつつある、おのれのことばの小径の前途を思い遣る人間同士の直観を、わたしは尊重したい。そしてそれこそが、国語教育の基底に据えられるものであるし、それをもう一度、しっかり掴み直してみたいと思ったのである。
昭和四十三年春
著 者
先の「感情教育論 目次」にひきつづいて、「続 感情教育論」 (上原輝男著 児童の言語生態研究会 発行 平成23年)の目次です。
☆続 感情教育論 (平成23年初版)
方威諒直ノ心ヲ養ヒ清明正大ノ気ヲ吐ク ―序にかえて
第一章 感情教育論
1 ”夢”作文と個性 ―その通性を求めて― 3
2 泣くということの研究のすすめ 34
3 ”なまいき”論 ―その正視座を求めて 52
4 体質改善としての感情教育
”いじめ”の対処療法は無効 衆愚からの脱出 ―孤高を教えよ― 67
5 道徳の発生 88
6 初学びの確立として ―生活の古典を― 97
第二章 子どもの言語生態研究
1 ことばの継承と子どものイメージ ―イメージは継承される― 111
2 子どもと夢 ―夢は休感とともに在り― 133
3 子どものけんか 157
4 現代っ子のことばの表現力 -その問題点- 172
5 子どもの口と肚との間 -小学校三・四年生のハードル越え 188
第三章 ことばは本来音声であった
l 音声言語教育の方法 201
2 丈字言語より音声言語を先に 218
3 日本人の霊格「や・ゆ・よ」音の中に小学校国語教育の尊厳性を想う
―わが民族の生命観としてのよみ― 256
第四章 教師論
1 子どものことばが聞ける教師に ―子どもの生きざまとことばの生態― 269
2 「訓導」に復帰すべし 294
解説 広島大学大学院教授 難波博孝 305
集録論文初出一覧 316
編集部あとがき 318