「一 現場及び家庭の盲点」P23より
ことばの習得とか、ことばの勉強とか簡単に言うけれども、こどもの精神発達と無関係にはことばは習得されない。筆者が考えたいことは、こうして心境をまとめ上げて行く発達経路と、その順当性である。ことばは、心象・心意・心境と別に習得のされようがない。それに、この心象・心意’心境は、昨日までのそれと無縁たり得ない。仮りに、先の″そうかもしれない″が、中間的心境の発見だとしても、それに至る経過において、それがなされたと考えるべきであった。
*以下M・M 記述
この章では冒頭に遠藤周作氏の「狐狸庵閑話③ 近頃の子ども」が引用されています。息子を連れての外出先などでのエピソードを紹介し、「近ごろの子どもはほんとうに手におえぬ。どう教育したらよいのか。」と結ばれています。
先生はこの発言が学校での国語教育とは無縁の発言であることを指摘しています。「もし本当にどう教育したらよいのかわからぬのであったら、どうして学校の国語教育担当者に訊ねてみようとしないのだろう。と・・・」
かと言って本当に学校の教師に訊ねよというのでもありません。そんなことを訊ねられても学校の国語専門という先生がきちんと回答できないだろうということは分かった上での発言です。
なのでこのあとには次のような記述が続きます。
「ここで、手におえぬとされた内容は、国語担当者が扱わなければならない仕事の、最も中心に据えられて然るべき対象であると思うからである。」
「世の中から小学校国語教育担当者は完全に忘れ去られている。」
「小学校国語の対象は、この遠藤氏が どう教育したらよいか とする対象とは別だとする時である。だがこの論のある限り、小学校国語教育を甘くしてしまって、人間の意識からは遠い、あってもなくてもというような方向へ追いやってしまうのではないだろうか」
先生はよく「日常から離れてはいけない」「生活感情を扱ってやる」ということを強調されていました。感情教育でも「屈折感情」などというようなものが学校で扱われないことも問題視されていました。子ども達にとって本当に授業で扱ってほしいものほど扱われていないと。
そんな先生が他界されて数十年・・・成果主義だの競争原理だのでますます「得点力」が学校教育の究極の目標であるかのような風潮になっていて、ますますこうした内容はおざなりになっているようです。
☆余談ですが、今季(平成30年1月スタート)放送のアニメの中に「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」というのがあります。主人公はアンドロイドのようなのですが、人間の言葉にまつわる複雑な事柄が理解できずに周囲とぶつかり悩む場面が多々あります。このアニメほど極端でないにせよ、子どもたちは日々言葉のやりとりで理解不能な場面に遭遇していて・・・でもそれに対して親も先生もきちんと対応してくれない・・・そんな思いで過ごしている・・・。
こうした事柄は「こうすればいい」というきちんとしたマニュアルがないだけにやっかいだし、だからこそテスト問題の対象にもならないから教育現場では度外視されてしまうわけですが・・・そういった疑問を正面から受け止める姿勢を小学校の先生は持たなければならない・・・こうしたアニメが制作される裏側にはそんな世の中の(かすかな?)期待がもしかしたらあるのかもしれません。
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