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日本人の心をほどく かぶき十話 より
平成7年5月13月 オリジン社
いまは一生懸命になって馬のことばっかり調べている。でも、私は馬が専門だと思ってはいないのである。馬と日本人が一緒になって生活していた時代があるはずだと。日本人騎馬民族説さえあるのに、その日本人がなぜ馬を捨てた。その日本人がなぜこんなふうに変わり得るのかということが知りたい。それを知りたい、知りたいというものの、同時に、わが身体の中で何が響いているのか、どこに私を連れていくのかということが、やっぱりこの年になってもなおかつ忘れられないのである。
(中略)
いままでは自分たちが学んできた知識体系を使ってやってきたけれども、もはやそれだけを武器としていたら、何をやっていいのか分からなくなってしまったというのが今日ではないかと言いたいのである。(P172)
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別の原稿でも書いたことがあるのですが、先生の著書の分かりにくいところは、歌舞伎や民俗学などでとりあげた話題に対して、それがどんなこととつながるのか、をほとんど示さないところにあります。
だから読み手は「だから何なの?さっぱりわからない」となってしまう。関係のない話をされているような気になってしまって、本を閉じてしまうんですよね。
*というより、本を開こうとも思ってもらえない。昨日も書いたことですが、この「かぶき十話」にしても「日本人の心をほどく」とタイトルにあっても、やっぱり「かぶきの本?自分には関係ない」と手に取ってもらえない。
ましてや、現代のようにネット検索で本をさがす際には、心に関心はあっても、そうした本を探すのに「かぶき」でキーワード検索する人なんていませんよね。
それでも先生が「こういうこととつながる」と意図的に明記しなかったのは、おそらく明記したとたんに、それが「縛り」になってしまう、それを恐れていたからなのだと思います。「ああ、そういうこととつながるのね」で終わりにされてしまう。
本当はそれ以上、様々なことにつながるのに、分かった気になってしまうことで、いろんな可能性がすべて切り捨てられてしまう。
先生がなくなってずいぶんたちますが、世の中の発想は可能性を狭める方向にどんどん進んでいます。
ますます先生の著書は受け付けられなくなっていくでしょうね。
そういうことからすると、重要なのは後半にある「いままでは自分たちが学んできた知識体系を使ってやってきた」以降の部分ではないかと考えます。
どうしても「知識体系」というと一般には「西洋流の学問体系」・・・分かりやすくいえば「因果関係がすっきりと明確」に整理されているもの、が思いうかべられてしまうのではないでしょうか。
その影響を受けているのでしょう、子ども達も
「この勉強をやっても大人だってそれを使って生活してるの?」
「これが分かったから、できるようになったからって、それが何なの?
何の役にもたたないじゃない」
知的好奇心からの質問であればまだいいのですが、単に勉強なんかしたくないという気持ちの表れである場合も多いですよね。そして改めてこんな風に聞かれると先生も親も答えに困ってしまう。
苦しまぎれに「つべこべいわずにやれ。そうでないと言い学校、いい仕事につけないぞ」というのが関の山。
これでは「学び」は目的ではなくて、完全に手段です。
まあ、実態として子ども達が学ばされているのは中身はカラッポでもいいからとにかく点数を少しでもあげること、というのが少なくない。大人たちが評価されるための道具になってしまっているのですから、子ども達にこんなツッコミをされてもきちんとした姿勢を示せないのは当然なのかもです。
上原先生の著書を読む時に、直接話題になっていることに限定しない というのを繰り返し述べているのも、先生の知識体系の発想が現代人の常識とは全く違うからです。
それは、特に江戸時代あたりまでは、江戸庶民なども普通にやっていた「知識体系」の作り方。
「〇〇 ならば 〇〇」という直線的な因果関係でとらえないんですよね。
様々な方向に立体的にネットワークが広がり、手を結んでいる。だから「馬」からみられた日本人の発想が、馬とは関係のない様々な分野とつながっていくわけです。
それは人間の大脳の中のネットワークとも似ているかもしれません。本当に優秀な人間になっていくというのは、どれだけ複雑なネットワークが構築できるかとも言い換えられるそうですから。
だから学習指導要領だって、「教科内容」を学んだらそこで終わり、という形はとっていないわけです。教科内容はあくまでも「教材」。その会得が最終目標ではない。最終目標は人間の成長そのものに寄与していくことです。
それが、テスト対策が目的になってしまっているから、それ以上の広がりを学校も扱わないし、子ども達も気にしない。テストが終ればサッサと忘れる。
*もちろんそうでない、まっとうな教育をしようという心ある先生もたくさんいらっしゃいます。
ただ、そういう先生方がふくらみをもたせる授業をしようとすると、「そんな暇があったらドリルをやらせろ」というようなクレームが親達からくるんですよね。子どもからも「先生、それってテストにでるの?でないならやらない」っていう声がでるようになってきてしまっています。
「すぐ役に立つものは、すぐ役に立たなくなる。」という有名な言葉があります。
大学などで専門以外の「教養課程」がおこあれているのも、今の自分と「関係ある」ということばかりでは、多様な社会に対応していけない、真に自分の力を伸ばせない、ということにあるのだと思います。
「関係ない」と思っていたことが、数十年後に自分の救いになるなんていうことを還暦すぎた私も何度も経験しています。
上原先生もそうですが、国語教育で感情やイメージを非常に重視していた一方で、それらを豊かにするためにも中学年以降は「論理思考」「数理思考」をしっかりと扱うというのを強調されていました。
いわゆる「理系的素養」「文系的素養」すべてが統合され同時に働いていくのが人間ということです。
☆今回は詳しくふれませんでしたが、「馬」と「日本人」ということの一つの表われが、最近大きな話題になった、アニメ&ゲームの「ウマ娘プリティダービー」です。競走馬をモチーフにしたウマ娘と呼ばれる、人間とはちょっと違った存在の少女達を描いています。
このアニメ、その設定から逆に熱心な競馬ファンの方々の多くからそっぽを向かれてたいんですよね。
視聴してみた競馬ファンの方々からもボロクソな意見が多かったです。
面白いのは競走馬に詳しくない人達の方が「競馬の知識」「競馬界の常識」等々の縛りがない分、自分の内なる感覚に自然に身き合ってみることができていたんだと思います。それで評判があがり、あとから熱心な競馬ファンの方々も二様の深さを再確認し、人気が急上昇。その後出たゲームは社会現象とまでいわれるようになりました。
これも背景には、日本人に深く刻まれていた「馬」に対しての意識がはたらいていたのだと思います。
上原先生が生きていたら、ウマ娘についてどんな発言をしたんだろうな・・・とついつい妄想してしまいます。
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