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感情教育論 より
昭和58年 学陽書房
折口学では、「一家系を先祖以来一人格と見て、其が常に休息の後また出て来る」という。つまり、「死は死でなく、生のための静止期間」をいい、生は蘇生であって、新生ではない。ということは、神意神霊(魂)の憑りつくことによって生命が復活するのである。日本語における「若返る」という語も、これで初めて納得がゆく。
("若"の思想――-序にかえて から)
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上原先生は折口信夫先生の晩年の弟子の一人でした。
この「一家系一人格」というのは、魂は生き通し・・・何度も転生するという考え方とも関りが深いものです。
著書ではないですが、上原先生の発言にはこのようなものもあります。
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赤ちゃん
『わたしの赤ちゃん』のような所有物という意識は困る。『私の系列の子』という意識。 (平成六年忘年会)
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学校の先生でも親御さんでも、子ども達は「自分の作品」という発想がはびこっているように思います。
高度経済成長の影響もあるのでしょうかね。
農耕民族として蓄積された教育観では、それぞれの作物がそれぞれ持って生まれた性質が最大限に発揮されるよう、最も適した栽培用を模索するのが普通だったのが、オートメーション工場のイメージに置き換えられてしまった。
画一的な方法で、思い通りの同じ規格の製品が大量生産できる・・・高度経済期以降の学校教育は、まさにこの発想に毒されてしまいました。
社会の多くの人が抱く「学歴」という基準が世の中の絶対基準になり、それは現在の競争原理・成果主義によって、全国一律のテストの結果で学校や地域を競わせる風潮にもなっています。
思い通りの結果にならない子は「失敗作」「不良品」扱いということですよね。
でもかつて普通に言われていた「子は授かりもの」という発想では、その子その子がもともと持っている「天分」「才能」を尊重して、しっかりと育むというのが大人や社会の役割だったわけです。
それを無視して、大人や社会が勝手に決めた基準での姿を無理強いし、優劣を決めるから人間はどんどんおかしくなってしまったと思います。
これは決して人間の貴賤を言っているのではありません。生まれによる縛りをいっているのでもありません。
その子その子の持ち味を見極め、その子が最も担える役割をはたし、社会に貢献できるように後押しするのが教育の役目だったわけです。
先生が「若返る」といっているのは、他の言葉では「生命力」「イメージ力」ともなります。
「新たに生まれなおす」というのは大きくいえば「一回一回の人生」
でも小さくいえば「毎日寝て起きる」が「死と再生」のイメージです。
さらに小さくいえば「休憩をとる」「遊ぶ」がそれになります。
*ブログ「たぬきの館」のこの記事も山椒してみてください。
上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー6
「停滞からの脱出のカギ イメージ力」
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12844971243.html
上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー7
「遊び・遊び心・遊び場所」
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12845082990.htmlPR