・教師は子どもたちにとって鏡でなくてはならない、って言ったんだからね。鏡ってのは、大人にすべきことだって言うのはうそだよ。子どもの姿がそのままこっちに映っていまうっていう鏡であればいいんだよ。それには、こちらが何か色が付いたり、あるいは、こちらに一つの形があったら映らない。子どもの前に出れば、子どもが全部映ってくるっていうのが、手に取るようにわかるのが教師だよ。それをみんな修練しなくちゃだめだよ。
なんでそんなことを言うかっていうとね、ぼくはある程度の自信が最近できているんだけども、それは僕自身が剣道を分かっているから。こちらが鏡になりさえすればいいのよね、剣道は。相手が来やすいようにこちらがしてやるの。そうすると相手は必ず来る。こちらが一つの構えを持つとだめなの。その構えにむこうが合わせようとするから。それは映っている事にならない。
こちらが完全に構えを捨ててかかる。そうすると、むこうはしたい放題し始める。そうすると、したい放題が全部こちらに映ってくる。そうすると、アッ、今度は小手から面にくるな、とかということが全部見えてくる。そうすりゃ、なんていうことはない。同じことなんじゃないですかね。
親以上に担任の前に出たら、自分の姿を全部映して見せる。そういう先生になるべきだ。自由教育っていう言葉があるけれども、その本来の意味はそういう事だったんだよね。教育は自由じゃなくちゃいけない。自由にしたい放題させてやる、ってことが目的じゃないんだよ。それには先生が子ども達の鏡になってやらなければ。言われていた様な、お手本を示してやることではない。 (平成三年合宿)
・剣道はハッとしなければ分からないんだ。数学的な処理ではわからんのだよ。 (平成二年六月例会)
(編者 M・M 私見)
「生態研究」としての授業の根幹となるような内容です。「誘導しない」という基本姿勢もここからきているとも言えます。
こうした関係の中で 教師と子ども 子どもと子ども 同士の言葉などが共鳴しあって、最終的には大いなる自然や宇宙との共鳴になっていくのだと思います。(心意伝承を媒介として)
子どもたちを思い通りに誘導しようとして、「授業が上手くいった」と教師が満足しても、それは結局は教師に子ども達が構えを合わせてくれているだけ、というのに気が付かないとならないのでしょう。でも、子どもが自分の思い通りに自由自在に動くというのが「自分の指導力の証」と自負する風潮はますます強まっているようです。