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上原輝男記念会 上原先生著書からの語録

「上原輝男記念会 上原先生語録集」では元玉川大学教授、上原輝男(文学博士 専攻 心意伝承学)の語録を紹介しています。 非常に多岐に渡っていますが、先生が生涯をかけて探求された、この風土、歴史、文化に根付いた<日本人>ということですべては繋がっています。 多様な価値観によってふだんの生活も国際社会での関りも難しさをます現代社会において、先生の語録は大きなヒントになると考えています。

「内なる無意識が現実問題を解決してくれる」

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日本人の心をほどく かぶき十話 より  
平成7年5月13月 オリジン社

 無意識が私をどこかに連れていく。その無意識というものはどこから成立してくるのかということが知りたい、また興味がある。そういうものを心意伝承というのである。だから心意伝承という学問ほど面白いものはない。

まだ心意伝承を口にする学者が少ないし、また私どもの業績も乏しいから、世の中がこっちを向いてくれないことも無理ないことだが、本当はもっと心意伝承学をやろうとする人が増えてくれれば、人間の幸、不幸の問題など、簡単に解決するだろうと思っている。・・・・・P173

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ブログ「たぬきの館」での記事とあわせてお読みいただきたいと思います。
切り口は違っていても、根は同じようなことを言っているんですよね。

上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー5
「あこがれ」
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12844830595.html


上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー6
「停滞からの脱出のカギ イメージ力」
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12844971243.html


「内なる自分」の無意識の中に、すべて答えはあるんだということ。
無意識世界のとらえかたには諸説あるのですが、上原先生の「無意識」「心意伝承」はユングの集合的無意識に近いかもしれません。
「本当の自分」という言葉で自分を限定してしまいがちな現代人ですが、無意識の中にはまだまだ出会っていない「自分」がいくらでもいるわけです。
されにいえばどんどん深いところには人類共通の意識がある。困難を乗り越える知恵だって既に持っている。

今自分が意識している「自分」は現実を乗り越えられないかもしれない。
でもまだ出会っていない自分は、それを乗り越える術を会得している自分かもしれない。

別稿でまたふれますが、上原先生が「古典芸能」研究をしていた理由の一つが、この「自分意識」なのだと思います。
「演ずる」というよりは「憑依」なんですよね。・・・「移りと成る」
この肉体は「器」なのだから、日々の精進はこの器を広げることなのだと。

教育の究極の目的も、そんな風にいえるかもです。

だから演じている自分も本当の自分の一つだという感覚。
現代人は他人の目を気にして演じるている自分を「ニセモノの自分」とどうしてもとらえがちですが、それも違った自分として取り込んでしまっていたのがかつての日本人の普通の感覚。

現代社会の大きな問題点は、この「無意識の中から湧き上がってくる違う自分の声」に耳を傾ける時間がなくなっていることです。
本来は「家に帰る」というのは、現実対応で照応した心身を回復させるために、別世界に帰ってくるということでした。

そころが家に帰っても子どもは現実対応に追われます。かつては「宿題やったの」で済んでいたものが「塾や習い事」でつぶれるようになりました。そして情報端末の普及によって、多大な情報の海に浸り、下手すれば夜中でも友達との現実対応に追われます。
それがない時間がせっかくあっても、動画サイトやアニメ、漫画・・・・

私はそういう現代的なことを否定しているわけではないんです。
でも「無意識との対話」が純粋にできるような時間帯も寝る直前にくらいはしっかりと確保してほしいと思うんですよね。
特に幼少期は。

それが不足すればするほど、青年期や大人になって現実対応ができずに心身を病んでしまう危険が高まると思います。
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上原輝男の最大関心事 <日本人>って何だろう

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日本人の心をほどく かぶき十話 より  
平成7年5月13月 オリジン社

 私は歌舞伎の専門家だというふうに言われるのは好きではない。また歌舞伎ではなくても、おまえは何かの専門家だろうというふうに言われること自体、本当に好きではない。なぜかというと、それは自分にとって最も関心のあることは、日本人とは一体何者なんだろうということである。
(P172)

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教育学・民俗学・古典芸能論・儀礼文化・・・・上原先生はいくつもの顔をもっています。
しかし先生の中ではそれらすべてが<日本人の解明>として一つにつながっている・・・それがこの文に端的に表れていると思います。

例えば教育関係者であるから、先生の教育に関しての著書だけを選んで読む・・・それはそれで大きな意義のあることなのですが、教育に関しての記述の背景に、これらの探求の成果があるということをふまえると、さらにその重要性が感じられてきます。

注)ここでいう<日本人>とは、この風土の中で古代からの積み重ねによって培われてきた歴史や文化の担い手という意味です。


先生は教育を農業によく例えていました。作物によって最も適する育て方は違うし、同じ作物でも気候や土地の受験によって育て方には微調整が必要になってくる。
だから誰かがある子ども達に行った教育法が優れた結果を出したからといって、それが他の先生の実践、他の子ども達への働きかけに必ずしも有効であるとは限らない。

ましてや、他国での教育学や心理学をもとにした成果であっても、日本人にもあてはまるとは限らない。むしろ害になることさえあるわけです。(これは逆そうですね。日本人に向いている教育法がよその国でも有効であるとは限りません)


そう考えていくと、<日本人の特性>を生涯追い続けたことが「教育の根本」を考える事と表裏一体であるというのは、先生にとっては自明のこととなってくるわけです。

参考
先生はこんなことも口にしていました
「自分のことを教育学者だとか、小学校の国語教育の専門家だとか言った覚えはひとつもない」

(執筆担当 HN 虚空)

ブログ名を「上原輝男記念会 著書からの語録」と改題しました

上原輝男先生の著書にある言葉に、記念会会員による解題・雑感などを含めた内容を紹介していきます。

なお、大学の講義や月例会等々での先生の発言に解題・雑感などを加えたものは「たぬきの館」で紹介しています。https://ameblo.jp/tanukidayo/
*ただしこちらはハンドルネーム たぬき先生(虚空) による個人ブログです。

ツイッター上原語録067「剣道」詳細

・教師は子どもたちにとって鏡でなくてはならない、って言ったんだからね。鏡ってのは、大人にすべきことだって言うのはうそだよ。子どもの姿がそのままこっちに映っていまうっていう鏡であればいいんだよ。それには、こちらが何か色が付いたり、あるいは、こちらに一つの形があったら映らない。子どもの前に出れば、子どもが全部映ってくるっていうのが、手に取るようにわかるのが教師だよ。それをみんな修練しなくちゃだめだよ。


 なんでそんなことを言うかっていうとね、ぼくはある程度の自信が最近できているんだけども、それは僕自身が剣道を分かっているから。こちらが鏡になりさえすればいいのよね、剣道は。相手が来やすいようにこちらがしてやるの。そうすると相手は必ず来る。こちらが一つの構えを持つとだめなの。その構えにむこうが合わせようとするから。それは映っている事にならない。

こちらが完全に構えを捨ててかかる。そうすると、むこうはしたい放題し始める。そうすると、したい放題が全部こちらに映ってくる。そうすると、アッ、今度は小手から面にくるな、とかということが全部見えてくる。そうすりゃ、なんていうことはない。同じことなんじゃないですかね。

 親以上に担任の前に出たら、自分の姿を全部映して見せる。そういう先生になるべきだ。自由教育っていう言葉があるけれども、その本来の意味はそういう事だったんだよね。教育は自由じゃなくちゃいけない。自由にしたい放題させてやる、ってことが目的じゃないんだよ。それには先生が子ども達の鏡になってやらなければ。言われていた様な、お手本を示してやることではない。          (平成三年合宿)


・剣道はハッとしなければ分からないんだ。数学的な処理ではわからんのだよ。  (平成二年六月例会)

(編者 M・M 私見)
「生態研究」としての授業の根幹となるような内容です。「誘導しない」という基本姿勢もここからきているとも言えます。
こうした関係の中で 教師と子ども 子どもと子ども 同士の言葉などが共鳴しあって、最終的には大いなる自然や宇宙との共鳴になっていくのだと思います。(心意伝承を媒介として)

子どもたちを思い通りに誘導しようとして、「授業が上手くいった」と教師が満足しても、それは結局は教師に子ども達が構えを合わせてくれているだけ、というのに気が付かないとならないのでしょう。でも、子どもが自分の思い通りに自由自在に動くというのが「自分の指導力の証」と自負する風潮はますます強まっているようです。

ツイッター上原語録066 「言葉」①詳細

・言葉は『履歴書』です。『人生の糸紡ぎ』そのものです。
 だから「どんな言葉が残って、どんな言葉が入っているか」という、言葉を忘れる事についての研究も大切なんです。今は覚えさせる事ばっかりだから。
 児言態ではこのように言葉を集めているんですが、言葉の活字スナップは、本当はダメなんです。言葉は音声ですから、音声分析をやらなければならないんですよ、本来は。感情を声にどう託しているか、っていう。
 言葉は『肉体の性能の一つ』でもあるんですから。
だから「自分の音声が相手にどう伝わっているか」ということに、皆さんはもっと注意を払わなくてはいけませんよ。  (児童言語の研究 講義より)

・経験あると思うのは電話の声ですよ。電話の声を聞いただけで相手の様子が分かるでしょう。声に生態が出ているんです。
 だから言葉は恐ろしいんですよ。すべてを暴露してしまうんですからね。
 それで子どもの発達もハッキリ示すんです。   (国語教材研究 講義)

・言葉というのは、子どもそれぞれに発生するんですよ。それを見届けるのが教育者ですよ。
 子どもにからかわれた時でも、それにどう対応するかが教育者としての命ですよ。(児童言語の研究 講義より)

(編者 M・M記)
最近特に強調されている「正しく言葉を伝達する力」というのは言葉を単なるツールとしかとらえていません。確かにそれはそれで大切な能力ではありますが、それ以上に特に母国語である言葉は、人間そのものとしての成長と不可分です。
だから母国語としての国語が最優先である初等教育の時期での指導のありかたについて上原先生は早くから提言をされていますが、現代はますます「外国語教育」の発想に汚染されているどころか、外国語教育に侵食されてきています。

母国語としての国語の重要性などもふまえて「言葉」②以降を近々更新する予定です。

プロフィール

HN:
上原輝男記念会
性別:
非公開
自己紹介:
本会は、上原輝男の功績を顕彰し、民俗学・国語教育学の発展に寄与する研究と交流を目的として設立されました。

ここでは上原先生が探求された事柄を、広く一般の方々にも知って頂くために、先生のあらゆる分野の語録を紹介しています。

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