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上原輝男記念会 上原先生著書からの語録

「上原輝男記念会 上原先生語録集」では元玉川大学教授、上原輝男(文学博士 専攻 心意伝承学)の語録を紹介しています。 非常に多岐に渡っていますが、先生が生涯をかけて探求された、この風土、歴史、文化に根付いた<日本人>ということですべては繋がっています。 多様な価値観によってふだんの生活も国際社会での関りも難しさをます現代社会において、先生の語録は大きなヒントになると考えています。

「あいづち」(ツイッター 上原語録 017補足)


*子どもの会話の流れを捉える研究として、あいづちの獲得過程の研究が必要。             あいづちで性格・発達がわかる。  (児童言語)

*子どものイメージにあいづちを打ってやれば、子どもはのる。    (平成七年五月例会)

*あいづちがへたな人間とは話しづらい。楽しくするために無理にでも『話しに花を咲かせる』                       (国語教材)

*教師ほど大事なあいづちって打てるようにしなきゃならない。先生の方が本当に適切なあいづちを打ってやる。そうすると子どもがパッとこうなってくる。そうしたら子どもがよくみえるようになってくるね。

やめなさい、なんて言うよりも上手なあいづちを打つべきだと思うよね。『相手に先手を取らせる。こちらが先手を取らない。』って剣道の極意といっしょだよ。先手必勝なんてガキのけんかだよ。相手に先手を取らせてやる。譲る。つまり、相手が先手を打つだろうという情勢を作ってやる。だから先手はどこで打ってくるかわかるんだよ。だから上手なあいづちが必要なんだ。            (平成四年女川合宿)

*日本語はもちつき。小学生が喜んでいる時は、波に乗っている。(特に三年生以上は、はずみを覚えていく段階。ゴムボール的な見方を覚える。弾みやすい子か脈搏数に注意するとよい。)    (国語教材)

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「国語の授業はこうする 用具言語編」  (ツイッター上原語録014補足)

第一部 国語学習の目的と態度 
五 言語作業補説
7、他教科教科書を読むことも国語科のうち
より
(P.43)
 私は国語科に『構え』の指導を導入すべきことを早くから提唱して来た(前巻「小学校の国語の授業はこうする―感情・思考・構え編」参照)。ここでの論旨の記号体系への指針と導入に則していうなら、『文体』の認識である。
 文体とは何かを教えよというのではない。われわれは、物の見方が改まる時、ことばが変わる習性を持っている。これは、成人したから気がつくのではない。物の言い方や修辞は補助手段ではない。物の見方(観点)、対処の仕方(対応姿勢)、世界定め(全体把握のありよう)によって、ことばは即応する。

*以下M・M 記述
「構え」というのは上原先生や児言態の教育観を考える上で非常に大きな意味を持つキーワードであるのですが、なかなか簡潔に説明することは難しいです。

基本的にはこの抜粋部分の最後 
『物の見方(観点)、対処の仕方(対応姿勢)、世界定め(全体把握のありよう)』
と深い部分で直結することからくる「生きる姿勢」というようなことなのですが、この中にある「世界定め」というのも(元は江戸時代の歌舞伎の世界で使われていた発想なんだそうですが)簡単には説明できない・・・でも重要なキーワードです。

☆世界定めに関連する児言態の研究報告が特集されているのは、
 雑誌『児童の言語生態研究』15号 (1996年)
  特集「子どもにとっての時間と空間」
です。

(ツイッター上原語録013補足)

みなさん、発想をもっと根本的にして下さい。そのひとつは言語観ですよ。我々は生態のひとつとしてことばを捉えてきたんだろ。今の学校が堕落してしまったのは、ことばをことばとして捉えてしまっているからだよ。 

そうして専門性が失われてしまっているから、世間のみんなが教育に目を光らせている。権威も失っているんです。・・・歴史上いちばんひどい時代じゃないのかな。(平成
7年新年会)

「小学校の国語かくあるべき -現代国語教育の盲点と批判-」  (ツイッター上原語録012補足)

P20 今日の国語教育が言語生活や言語活動の指導であらねばならぬという意味は、英会話を習って日常生活の用が足せるようにしてやるということと同じではなかった。

言語生活と殊更に言う内容は、われわれが(大人も子どもも含めて)ことばと向き合う自分、あるいは自分にまつわりついて来ることばを処理しなければならない生活を思うからである。また思わなければならないように仕組まれているのが、人間の一生ではないか。

「小学校の国語かくあるべき -現代国語教育の盲点と批判-」  (ツイッター上原語録011補足)

「一 現場及び家庭の盲点」P23より
 ことばの習得とか、ことばの勉強とか簡単に言うけれども、こどもの精神発達と無関係にはことばは習得されない。筆者が考えたいことは、こうして心境をまとめ上げて行く発達経路と、その順当性である。ことばは、心象・心意・心境と別に習得のされようがない。それに、この心象・心意’心境は、昨日までのそれと無縁たり得ない。仮りに、先の″そうかもしれない″が、中間的心境の発見だとしても、それに至る経過において、それがなされたと考えるべきであった。


*以下M・M 記述
この章では冒頭に遠藤周作氏の「狐狸庵閑話③ 近頃の子ども」が引用されています。息子を連れての外出先などでのエピソードを紹介し、「近ごろの子どもはほんとうに手におえぬ。どう教育したらよいのか。」と結ばれています。

先生はこの発言が学校での国語教育とは無縁の発言であることを指摘しています。「もし本当にどう教育したらよいのかわからぬのであったら、どうして学校の国語教育担当者に訊ねてみようとしないのだろう。と・・・」

かと言って本当に学校の教師に訊ねよというのでもありません。そんなことを訊ねられても学校の国語専門という先生がきちんと回答できないだろうということは分かった上での発言です。

なのでこのあとには次のような記述が続きます。

「ここで、手におえぬとされた内容は、国語担当者が扱わなければならない仕事の、最も中心に据えられて然るべき対象であると思うからである。」

「世の中から小学校国語教育担当者は完全に忘れ去られている。」

「小学校国語の対象は、この遠藤氏が どう教育したらよいか とする対象とは別だとする時である。だがこの論のある限り、小学校国語教育を甘くしてしまって、人間の意識からは遠い、あってもなくてもというような方向へ追いやってしまうのではないだろうか」

 先生はよく「日常から離れてはいけない」「生活感情を扱ってやる」ということを強調されていました。感情教育でも「屈折感情」などというようなものが学校で扱われないことも問題視されていました。子ども達にとって本当に授業で扱ってほしいものほど扱われていないと。

そんな先生が他界されて数十年・・・成果主義だの競争原理だのでますます「得点力」が学校教育の究極の目標であるかのような風潮になっていて、ますますこうした内容はおざなりになっているようです。

☆余談ですが、今季(平成30年1月スタート)放送のアニメの中に「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」というのがあります。主人公はアンドロイドのようなのですが、人間の言葉にまつわる複雑な事柄が理解できずに周囲とぶつかり悩む場面が多々あります。このアニメほど極端でないにせよ、子どもたちは日々言葉のやりとりで理解不能な場面に遭遇していて・・・でもそれに対して親も先生もきちんと対応してくれない・・・そんな思いで過ごしている・・・。

こうした事柄は「こうすればいい」というきちんとしたマニュアルがないだけにやっかいだし、だからこそテスト問題の対象にもならないから教育現場では度外視されてしまうわけですが・・・そういった疑問を正面から受け止める姿勢を小学校の先生は持たなければならない・・・こうしたアニメが制作される裏側にはそんな世の中の(かすかな?)期待がもしかしたらあるのかもしれません。

プロフィール

HN:
上原輝男記念会
性別:
非公開
自己紹介:
本会は、上原輝男の功績を顕彰し、民俗学・国語教育学の発展に寄与する研究と交流を目的として設立されました。

ここでは上原先生が探求された事柄を、広く一般の方々にも知って頂くために、先生のあらゆる分野の語録を紹介しています。

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