忍者ブログ

上原輝男記念会 上原先生著書からの語録

「上原輝男記念会 上原先生語録集」では元玉川大学教授、上原輝男(文学博士 専攻 心意伝承学)の語録を紹介しています。 非常に多岐に渡っていますが、先生が生涯をかけて探求された、この風土、歴史、文化に根付いた<日本人>ということですべては繋がっています。 多様な価値観によってふだんの生活も国際社会での関りも難しさをます現代社会において、先生の語録は大きなヒントになると考えています。

「対談 上原輝男 × 金城哲夫(ウルトラマン作者)③  継続と切断という矛盾

今回は長めに紹介しています。

あの当時はストーリーもの子ど向けテレビ番組でも放送話数は今と違って非常に多かったという背景の違いがあることを念頭に入れてお読みください。

今にあてはめると、漫画の連載にあてはまるような話とも言えます。

そして「教育」の「今」と「これから」を考える上での重大なカギもかくれていると思います。

***************************

(一場面から次の楊面への移り変わりをどのように考えているか、
完全に前の場面と次の場面が切断されていて、ほとんど無関係なものほど喜ぶという意味なのか、
あるいは、どこかで、つながりを持たせてあるということなのか。)

金城
 無関係なほど喜ぶのではないでしょうか。そこに意外性があります


上原
 それそれ。その意外性ということになると、さっきのパンチの問題につながってくると思うのだけれど。


金城
 非富に対立関係のある二人の人物がいたとするでしょう。その場合、こういうわけで喧嘩するというのではなく、まず、アクションのシーンがあって、そのうち二人がなにゆえにそうなったかのシーンがあるのです。その行きかたの方が、パンチがあるのです。アテンションゲッターといって、まず、子どもが、アーッと驚く。

そこで引き込んでそれから自分の言おうとするテーマにはいるのです。段取りをつけるより、意外性でもっていかないと、子どもたちはついてきませんね。

たとえば、いまの子どもは、ノラクロだとか、冒険ダン吉なんかおもしろくないと言いますね。それは、パーッと石を投げるでしょう。すると石が空間に止っているのです。いまの浸画は、パーツと空間にスピードを持って流れている描写がありますね。このように子どもの見方自体がかわってきている。それをパンチがあるというのです。


上原
 今回の、われわれの特集から言えば、そんなところに子どもの場の捉え方があるというふうに問題にしていかねばならないと思うのです。子どもの導の捉え方自体がいっも動いているということ、そう捉えるべきではないかと、このことは思いますね。


(一つ一つの場面が強烈でなくてはならないが、それが全体的な何かを持だなくてはならない
つまり場面の継続と切断の問題)


金城
 それは、パンチだとかアクションものに子どもが飽きて来て、子ども自体がハート的な内容を喜ぶようになっているということだと思う。たとえば″巨人の星″という浸画は、ひとりの貧しい少年の人間成長のドラマなのです。’男の魂″みたいな物語です。ああいったものに今日かえりつつあるということも言い得ます。だから、僕は、このごろ、たいへんしつっこい性格をもっている男だとか、ダメな奴が苦労して冒険をしていく物語をパンチを忘れないで書いています。



上原
 だから、そこのところが聞きたいのです。一つの成長のプロセスと言ったでしょう。つまり、片方では、長い楊面を意諏している。そして、その中における一つ一つのカットはたいへん短かくなくてはいけないということ。それは、どんなことなのだろう。

 見る→読む と移り変わると言ったが、それはそれとして認めたいと思います。しかし、私は、それを。子どもの場面のとりかたの違いというふうに考えていきたいのです。絵本が好まれるか、文章が好まれるかという言い方ではなくて、子どもの頭の中にできてくる場面のとりかたが移動しつつあるというふうに考えてやりたいのです。

さっきの話にもどりますけれど、全体的過程というものと部分的な一つ一つの絵とのつながり関係というところに、何か秘密が隠れているような気がするのです。

・・・・子どもの頭の中でイメージの構成をやるやり方が、変わってくるのではないかと思うのです。
 ストーリーを考えるということは、過程を考えるということ、全体的な継続を考えるということは、パンチのきいたものがほしい・・・切断されたものを必要とすることは、これは矛盾する。一つ一つの場面が切り離されているほうが気持ちがいい・・・しかし、全体的なストーリーを必要とする。これは、やはり、相矛盾する。



金城
 パンチとか場面転換を早くとかいうのは、手法ですよね。全体的なものを表現していく上での今様の手法だということです。



上原
 今様ということは、いまの子どもに合うということですね。では、それは、今の子どもの場面のとり方が、そういうふうであることを、金城さんは、想定しているのですね。



金城
そうです。
************************************:

今、アニメの場合だと放送話数が非常に短くなっているというのは昨日もふれました。
だから一つ一つのエピソード、一人一人のキャラの背景を深く描けない。あっというまに12話で最終回になってしまいますから。
そしてそれすらも動画再生や録画視聴で早送り・飛ばし飛ばしという見方をする方が増えている。

昭和の頃は録画なんていうのはなかったですから、好きな番組などはそれこそ気を入れて画面にくぎ付けになって、集中してみていたんですよね。見逃したり、聞き逃したりしたら、もうそれをとりかえせないということもあって。

テンポが速い上に、めまぐるしくストーリーが変かしていく、それをさらに早送りや飛ばし飛ばしでみている。
漫画をよむ際にもページのめくりかたが非常に早い人が多い。読み味わうというよりパッとみての印象ですぐに次のページをめくる。
短時間での動画サイトをつぎからつぎへと観まくる

この対談が行われた当時とは比べ物にならないくらいに、パンチのきいた断片をキャッチしている、というのが今の子どもや若者たちのイメージの構成仕様になっているということなのでしょう。


それはそれでそうなっているのが実態なのだから、そこに合わせていかなければならないのは確かなことです。
テレビ作家も漫画家もその工夫で日々苦心しているのでしょうから。

子どもの成長・・・大人になっても本来は続く教育という営み・・・は、一回一回のテスト対策授業という意識に少なくとも子ども達はなっていると思います。

でも、本当の「教育者」は、今この教材を通して授業していることが、今後の人生にどう影響しているのかをしっかりとふまえつつ、一人一人の意識世界にどうしたらきちんと働きかけられるか、を意識して教壇に立てる存在でなければならないわけです。

断片的なことを好む、授業に集中し続ける持続時間が短い子ども達が増えている・・・・それでも子ども達に教育をしていかなければならない。しかも、生涯に有益という「持続性」をふまえた形で。

そういう現代社会の中で、ホンモノの人間教育をしていくという、相反することの両立のカギも、この上原先生と金城哲夫氏のやりとりには隠れているような気がするんですよね。
PR

対談 上原輝男 × 金城哲夫(ウルトラマン作者)② 「子どものとらえかたのテンポがはやくなってきている」

もともとこの対談は「子どもの場のとらえかた」がテーマでした。

***************************
金城
 (怪獣ブームの話から)しかし、プームになったからと言って安心しているわけには、いかない。

 子どもがものすごく飽きっぽくなっていること。それがものすごいスピードなんだ………だから、そういう意味から、子どもの目をたえず意識して気を配っていますね。

 僕としましては、子どものテンポにあわせてはいますが、でもあまり残酷にならず、極端に刺激したりしない工夫はしています。手塚さんの虫プロでは、手塚ピューマニズムがあり、父母団体らの推薦もある。しかし、どうしても、子どもがついてこないという現実もあるわけです。そのバランスが、たいへんむづかしいところです。


上原
 ・・・・最近の子どもがたいへんあきっぽくなってきたといわれているのですが、それは、場面転換がたいへん早くなってきていると解釈していいでしょう。いわば、テンポの遅いものではだめだと言うのは、テンポの早い場面転換が今日の子どもにできるようになってきているということなのか、それに対してシナリオ執筆の上にもその点を配慮しておられるのか・・・・・


金城
 テンポの問題では、僕は、長ったらしいものは書かない。ストーリーが過去へ動くか、人物が激しく行動するか、少し長くなると主人公を外へ出して歩きながらしゃべらせるかして、画面が絶えずじっとしていないものを書きます。

 子どもは、背景が変わらないドラマをじっと聞こうとはしない。絵がどんどん変わって行って会話がなくてもおもしろいものでないとテレビはだめですね。


上原
 ということは、結局は子どもが楊を捉える場合、場が、どんどん変わってもさしつかえないということになるわけですね。場をどんどん変えるということがテンポが早いということになってくるのですね。つまり、同じ画面では、いけない。絵が変わらなくてはいけない。ということは、場面が変わっていくということですね。それを子どもが好み。またうけるものであるということなのですね。

金城
 そうですね。場という言いかたなのかしら?もっと動いているものとして捉えていますね。

***************************************

このやりとり、そのまま現代社会にもあてはまりますね。
しかも「子ども」だけではなく大人でも。

考えてみれば当然でしょうね。
この当時話されていた「子ども」が、今「50代 60代」になっているわけですから。

映像だけではないですよね。
「消費社会」によって、すぐに買い替えるというのがあたりまえになってしまっています。
モノを大事に使い続ける、というのがかつては当たり前のことでしたが、今はそう思っていても貫けない。

家電製品など特に修理対応の期限が7年だっり、買いなおした方が安くつくとか。

自分らしさを大切にと、口ではいっていながら、他人にいかに受けるかをかなり気にしています。
ファッションでも自分に似合うお気に入りのものを長年愛用するというのもへっていますよね。
バブルの頃かども、後宮ブランド品も一度みにつけたら、すぐに別のを買うなんていうのが話題になっていました。
一度披露したらもう驚いてくれなくなるからでしょうね。


ただ、ちょっと気になるのは、そうした店舗云々のことでの飽きっぽさが当時もあったにせよ、それらの記憶への残り方がどうも大きく違っているように思います。

これについては個人HPのコミュニケーション雑感シリーズでも触れたことがあるのですが、場面場面のテンポはやくても、それらが集積された物語全体は、かなり長くても受け入れていたと思うんですよね。
そしてそこから重要なこともたくさん感じ取っていた。
そしてそのことが数十年たっても記憶の中に残り続けていた。

*ワニワニHP 内 http://www2.plala.or.jp/WANIWANI/index.html
コミュニケーション雑感22 アニメも人間もすぐに判定するのはテスト対策国語の影響も?
コミュニケーション雑感25  アニメ・ドラマ・マンガなどでも人間・人生を学べる

そろそろ4月ということでアニメ界ではいわゆる冬アニメが続々と最終回をむかえています。
多くのアニメが1クール(12話)扱いなので、ちょうど春夏秋冬で切り替わるんですよね。
そしてまた4月から春アニメとして新作が数十本はじまります。

年間100本以上が放送されるのが今の世の中。
そして忘れ去れらるのがとにかく早い。放送時にそれなりに話題になっていたものでも、放送終了後数週間でほとんど話題にならなくなります。1~2年したら忘れ去られてしまうものも多い。

昭和のアニメで話題になったものは、アニメファンでなくても何となく知っているという人が今も記憶に残っているものですが、はたして令和の今、放送されていて半世紀たったころに記憶に残っているもの、ウルトラマンのように世代を超えて語り継がれているようなものは数百本、数千本のアニメの中でいくつでしょうね?

この「飽きっぽい」という問題は次回もとりあげたいと思います。

「対談 上原輝男 × 金城哲夫(ウルトラマン作者)① 「真の意外性とは予期されるもの」

***************************
金城哲夫
 あの、意外性ってね、侯は、桃太郎の話だってものすごく意外性があると思うのです。でっかい桃が、どんぶらどんぶら流れて来るわけです。まずこれが意外性ですよ。でっけい桃だなと婆さんが、爺さんの帰って来るのを待って切って見た。中から赤ん坊がとび出した。これは猛烈な意外性ってわけですよ。

 鬼ケ島へ鬼征伐に行くでしよ。いぬ、さる、きじが家来っていうのもそうですよ。鬼退冶ですからね。ウルトラマンみたいなものですよ。これは。桃太郎というと一般化した話だと思うけど、よく考えてみると。


上原輝男
 ちっとも変わらないっていうことね。

……ところが僕なんかはね、実は意外ではないんだという考え方をしている。つまり、作られるべくして作られていった作品であって、川上から桃が流れて来るのも、驚かしてやれなんていうでまかせじゃなく、日本人にとって完全な意外性でなく、予期されるところの意外性なんだな。日本人の感覚にぴったりした意外性であるから、あの話は今日まで伝承されて来た。

 子どもにとって、完全な無縁性ならぱ、その作品は当たらない。わからないということになってしまう。期待される意外性でなくては、やっぱりダメなんだと思う。


1968年 昭和43年頃
************************************

参考)「予期されるところの意外性」というようなことを、「的中性」と呼んでいたこともありました。

25日のブログ記事 心意伝承の解明が目的 ~芸能研究はあくまでも材料~
で心意伝承の探求があらゆる人達にとって有意義ということを書きました。

その理由の一端がこのやりとりにも表れています。
テレビ番組視聴者としての「子ども」ということでのやりとりですが、「大人」だってそうです。
テレビ番組に限らず、心に響く・・・というとうのことが起きるのは、無意識をふくめたそれぞれの人の中に、響き合う元になる共通する何かがあってこそなのだと。

だから完全な意外性を狙ってもダメということなんです。それは単なる身勝手になってしう。


ただ、現代社会は見た目の判断とか表面的な知識のレベルで自分にとって関係あるか、ないのかをビシッと即断してしまう傾向があります。
「味わう」ということをなかなかしない。

深い部分からの共感、共振・共鳴は「味わう」という感覚的な部分からわきあがってくるものです。

まだ「自分が自分が」と自説のみを主張して、他人の意見には一切耳をかさない
一方的に自説をまくしたてるマシンガントーク傾向のある人も共感以前に他人の意見に対して防壁をつくり、攻撃しますから、意中性も何もあったものではありません。

それで相手の意見を叩き潰せたら「勝った!」なんていう気持ちに浸る人達があふれていますが・・・それってやればやるほど孤立していくだけで、本当の幸福感は満たされないとおもうんですよね・・・。


今日の個人ブログは
上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー12 「幸せ」
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12846000023.html

真の幸せも、この内なる世界との関係があればこそ、という内容です。

心に響く小学校カリキュラム

心に響く小学校カリキュラム
*******************************
感情教育論 昭和58年 学陽書房

小学校のカリキュラムは知的になりすぎている。小学生が学びたいのは知的対象としての言語ではなく心の使い方である。人の子が人としてたち交わるための心の向け方配り方を求めている。これが年齢層に時ところをわきまえた対応体ができるのを世間に期待しているのである。またそれを誰よりも喜び安心するのはその子の親なのである。 p77
*******************************


個人ブログで、絵本やアニメの教育力についてとりあげてきています。
今朝の更新で、寄せて頂いたコメントに基づきながら、そのことについて再度触れています。

この感情教育論の言葉も、そうしたことと密接に関わっている内容です。

昭和58年の段階で先生がこうした指摘をされていた・・・でも学校教育はますますテスト対策の名のもとに知的になり、社会の要請として現実対応のスキル教育の方向になり続けました。

そうした教育を受けた世代が、今社会人となってコミュニケーションで悩む、現実対応に苦慮して心身を病んでしまう・・・学校の先生自身がボロボロになってしまっています。

それでもこの状況を放置し続け、現実意識に突き進むのか・・・・小学校本来のことに立ち戻るのか・・・学校教育の存亡の大問題です!

参考
子供の時に影響をうけたもの②
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12845851153.html
学校の授業教材との決定的な違いについて考えてみました。

心意伝承の解明が目的 ~芸能研究はあくまでも材料~

*****************************
「心意伝承の研究 芸能編」より
昭和62年1月16日 桜楓社

 全体を蔽って、(芸能篇)としたが、決して芸能研究を目的とする謂からではなくて、あくまで、本書における心意伝承研究の素材が芸能に限定されたことを示したまでである。(緒言より)

*******************************

これは3月18日のブログ記事 
上原輝男の最大関心事 <日本人>って何だろう
でとりあげた事と同じような内容の言葉です。

こうした先生の言葉を繰り返し紹介するのも、そこがはっきりとしていないと、ここでどのような言葉を紹介しても、「自分の生き様とは関係ない」と思われて、そこでオシマイになってしまう恐れがあるからです。

西洋的合理主義が徹底したこともあってか、どうしても今の世の中は
「・・・のため」
「・・・に役に立つ」
ということが明確になっていないと多くの人達の意識にひっかからないんですよね。

ですから、ネットにあふれる情報の多くも、いかにシンプルに分かりやすくがポイントとされています。

長い文章はダメ、とか、動画も短く とか・・・・・

好きなアニメや映画でも早送り再生で済ます人が増えている時代ですから、現代社会の常識から外れた、古来からの<日本人>が受け継いできた無意識の世界の話題などを、長々と書かれてもなかなか読んではいただけない。


しかし「心意伝承」は誰もの無意識の中にも共通にあるもの・・・感情やイメージの動き方のクセも含んで・・・ということですから、あらゆる人達にとって、関りの深いものです。

それこそ普通の人間関係などそうです。
心で悩んでいる人達も、こうした無意識のところから、何が自然で何が不自然なのかを再確認することには大きな意味があります。

子育ても教育も福祉も、人間の成長と一体のことですから、かならず必要です。

芸術や作家などの創作活動の方々にも人間の深い心への共感や感動を感じることは、、まさしく心意伝承との響き合いです。

商業活動・経済活動等々もそうですよね。人間が相手なのですから、どのようなことが響くのか・・・・


そのようなことをあげたらきりがありません。

先生は心意伝承が比較的はっきりと形になってあらわれたものとして歌舞伎などの古典芸能に素材を求めました。
「芸談の研究」「心意伝承の研究」「かぶき十話」等々は、歌舞伎の内容を知らないとはっきりいってよく分からないことが多々あります。そういう場合でも、とりあえず分からないところはどんどん読み飛ばしてもいいと思います。

その中で、ところどころ書いてある「心意伝承」の部分を拾い読みして、ご自身の生活や心とてらしあわせながらお読みください。
先生の文は、格調高いといいますか・・・敢えてややこしい言い回しをしているところもあって分かりにくいのですが、だからこそ逆に「分かろう」とはしないで、「こうかな?」って自分と照らし合わせて自由に考えてみるのが、一番面白い読み方になると思います。


*著書の言葉よりもずっと分かりやすいのが、講義録や会議録などでの 言葉で話された記録 です。
それは別ブログ「たぬきの館 現代に生きる上原輝男」で紹介しています。

なるべくこちらのブログの内容とリンクさせるようにしていますので、関連記事を照らし合わせながらお読みくださると、みなさんとの接点が様々な形でみえてくると思います。

心意伝承の世界を意識することの、日常的な意義の一つは「つぎ」への意識世界をより深めるためです。
上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー11
「次への意識」
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12845749543.html

プロフィール

HN:
上原輝男記念会
性別:
非公開
自己紹介:
本会は、上原輝男の功績を顕彰し、民俗学・国語教育学の発展に寄与する研究と交流を目的として設立されました。

ここでは上原先生が探求された事柄を、広く一般の方々にも知って頂くために、先生のあらゆる分野の語録を紹介しています。

ブログ内検索

カレンダー

03 2025/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30

忍者カウンター

P R

Copyright © 上原輝男記念会 上原先生著書からの語録 : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]