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上原輝男記念会 上原先生著書からの語録

「上原輝男記念会 上原先生語録集」では元玉川大学教授、上原輝男(文学博士 専攻 心意伝承学)の語録を紹介しています。 非常に多岐に渡っていますが、先生が生涯をかけて探求された、この風土、歴史、文化に根付いた<日本人>ということですべては繋がっています。 多様な価値観によってふだんの生活も国際社会での関りも難しさをます現代社会において、先生の語録は大きなヒントになると考えています。

「個人の心も伝承の流れの内」

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日本人の心をほどく かぶき十話   上原輝男著 主婦の友社

戦後の日本人は戦後の教育が間違ったか、徹底したのか、心は自分のものだというふうにみんな考えるようになってしまった。そして我が心は自分で自由にできるというふうに、自信過剰になってしまった。

 しかし、自分の心は自分の心でありながら、自由にできないのが本当ではないのだろうか。自分の心だという以前に、もう自分の心はつくられている。長い年月かかってつくられている。ただ、人間は歴史的な存在だから、その長い年月というのも、そういう意味で私が今言っているというふうに思われそうだが、もっと丁寧にいうと、どうも数代にわたってつくられると考えるべきではないだろうかと考えている。

 数代以上には及ばないのかという反論が出るかもわからないが、そこは人間の記憶の問題があるだろうというふうに考えられるので、数代にわたってつくられるというのがいいと思う。だから、決して人間の心は、古人が思うように自由自在につくっているなんて、とてもできない。こう考えているのが私の現段階での考え方である。

 別の言い方をすると、日本人は日本人なりの杖を持っていることになろうと思う。

・・・・・・こういうふうに、一つひとついい出したら切りがないが、日本人には日本人の心の偏向、偏りがあるということである。あるいは趣味といってもいい。好みがあるというおとである。こういう問題を歌舞伎を通してふりほどけたらと、考えている。
P10~

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「個人の・・・」ということばかりが主張され、学校教育も個々人の保護者や各お偉いさんたち、業界さんの方々からの「公教育」から大きく逸脱した無理難題にふりまわされていることで混迷を深める現代社会。

「伝承」などというと頭から「封建的だ!」と非難されそうですが、やはり「伝承」という「通性」を失ったら、良き社会の実現を担いつつ、自分らしく生きるという人間への成長はできないと思うんですよね。


1日からNHKで再放送がはじまった「ちゅらさん」
自分の夢を追いかけ、自由に生きようとする人達・・・でもやっぱり知らず知らずのうちに、大きな心の流れにのっかって生活している・・・・そんな生き様をユーモラスに・・・でも時としてホロリとさせられるように描いている素晴らしいドラマだと思います。

理屈抜きで楽しむことが最優先ですが、観終わったときに、上原先生が探求していた古来から「日本人の心」に伝承されてきたこともフトふりかえってみると、みなさん自身の生活もどんどん広がるのではないでしょうか。

まだずっと先の展開になりますが、ドラマの後半や、あるいは後に制作された続編シリーズなどは子育てが描かれるのですが「教育」の根源を問い続けている作品という観方もできます。


上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー15
「いのち」
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12846930691.html

*全編を通して「おばぁ」の語りの内容などは、まさに我々に対しての「教育」ともいえますけどね。
現実的には脚本の通りにしゃべっているだけではないか、と突っ込まれそうですが(笑)

でも、以前別のブログでとりあげたまさに「テレビ作家の教育力」といえます。

上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー9
「テレビ作家の教育力」
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12845368943.html
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「日常生活での言葉の教育」

「国語」は単なる1教科ではありません。家庭などでの日常生活、学校生活そべてが「国語の学習」となります。
そして、幼い時ほど、コミュニケーションの道具とは違う観点での言葉の獲得が重要です。

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小学校の国語かくあるべき ~現代国語教育の盲点と批判~
昭和53年 学芸図書

今日の国語教育が言語生活や言語活動の指導であらねばならぬという意味は、英会話を習って日常生活の用が足せるようにしてやるということと同じではなかった。

言語生活と殊更に言う内容は、 われわれが(大人も子どもも含めて)ことばと向き合う自分、あるいは自分にまつわりついて来ることばを処理しなければならない生活を思うからである。また思わなければならないように仕組まれているのが、人間の一生ではないか。
P20
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「言葉とはコミュニケーションの為のツールである」とうのが、先生のいう「英会話を習って・・・」の部分になります。

実際に現代社会は大人になってもこのコミュニケーションへの苦手意識は相当なものですね。
もっとも日本人は、いわゆる「社交的な言葉のやりとり」はあまり得意でなかった民族・・・場面によっては「黙る」ことを美徳として生活してきたという歴史があります。

だから昭和のある時期から急に西洋流に社交界での社交術のような・・・ある種演じるような・・・ことに転換しましょう、と言われてもなかなかそれが出来ない人の方が多かったと思います。
それでも無理に演じて若者が疲れ切ってしまったのが「ネアカとネクラ」以降のことだったのでしょうね。

いつか改めて詳しく紹介しますが、上原先生はこうしたことに関して「母国語は外国語とは全く違う」ということを様々な場で主張しています。

*参考
ワニワニHP 特集「コミュニケーション雑感」シリーズ
waniwani@olive.plala.or.jp

もうすぐ新学期でのあらたな学級経営がスタートする教職員のみなさんも多いと思います。

「出だしからビシッと躾けなければならない」「最初の数日間で決まる」
ということは昔から言われてきましたし、ある意味でそれはそうなのですが、「躾ける」という中身が問題です。

お互いに相手の言葉をきちんと聞き合う、頭ごなしにバカにしない、批判しない・・・という、最低限の礼儀・マナーを躾けることはとっても大事なことだと思います。その上で秩序ある「ナマ・本音」の出し方ができるという雰囲気のクラス作り。

ただ、中には「教師の指示通りにきちんと動く」「教師の期待することを察して言動をコントロールできる」というようにするのが躾だという考え方もあります。

特にそれが威圧的に行われる、あるいはクラス内でなかなか言う事をきかない子を見せしめのようにして、優越感を大半の子にうけつけて思い通りに動くようにさせる・・・それは、どんなに統制がとれているようにみえていても、人間として最も大切な心や生き様が未発達であるばかりか、屈折した感情をすべての子ども達に獲得させてしまうことになりかねないと、私は考えています。

家庭教師で学校嫌い・学校不信になった子ども達の中には、嫌いになったきっかけとして「習っていない漢字を使ったらものすごく怒られた」「自主学習ノートで、自分が好きなことを図鑑で調べて書いていったら、学校で教えていないことは勉強ではない、って叱られた」という子もそれなりにいました。

そういう先生方は、子ども達の成長に関わるすべてを、自分の授業だけで獲得するのだと思っているのでしょうかね???


☆昨日の記事に対してこのような感想がよせられました
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投薬という西洋の発想って成分を抽出してピンポイントで作用させる、乱暴な言い方をすると抗癌剤みたいに癌に効くけど、副作用として健康な細胞にも破壊を及ぼしてしまう。

現代の教科書を見ても抽出ばかりで同じことだと思います。
覚えているけど肝心な中身はよく分かっていない人は沢山いる。

これをやっておけば大丈夫という発想には落とし穴があるという事ですね。
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「教育の役目・目標」

年度はじめということで・・・・もちろん家庭教育や生涯教育には年度もなにもないですが
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感情教育論 昭和58年 学陽書房

教育は投薬ではない。
それは生まれ出た人の子が、人の心を
獲得していく過程を保証することである。
(P2)
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これまで何度もあちこちで紹介している言葉です。
でも、何度読み返してもハッとくる言葉です。

特に初等教育段階を想定していての言葉なのですが、中学校以降であれば「知的教育」で獲得されることが人間としての豊かさに寄与していくことの保証ということになりましょう。

*社会的地位の向上とか、歪んだエリート意識を持つ、という意味ではありませんよ!!!

*参考
上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー13 「教育者になる」ということ
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12846609386.html

「対談 上原輝男 × 金城哲夫(ウルトラマン作者)⑤ 「教育的であるということは、内容ではなく形式である!!」

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上原
 たとえばね。善をすすめなければいけないと一全懸命になっている子どもがいるとするでしょう。すると、このときに、悪をにくむわけですよ。しかし、善と悪との二つを考えるようになってくるでしょう。そうすると、いままで、一つの見方でしか見られなかったことが、二つの見方ができるようになる。

 だから、やっぱり、人間のものの見方がどんどん変革されてくれば、それは(人間性が高まるということが)できてくることだと思う。
 さっきの映画の話にしても年寄の方は、映画の場面がとらえられなかった。子どものほうは。そのしくみを見てとった。そこに写されているものは、人間生活でしょう。
 そのしくみがどうなっているかがわからない方の人間の人問性が高いと言えるか、それよりも、しくみがわかるほうが、人間性がわかっていける可能性をずうっともっているって言えないでしょうか。

・・・・・あるおとなが人格の高い人から、ためになる話を聞かされたとするでしょう、このとき、子どものとき、だれかの話を聞いて感激したという感激の仕方を再ぴするかというと、もはやしません。
 ただ、その人の言っている立場とか話の内容が、どういうふうにして、その人においてしくまれてきたかという、そんなことだけを感心しますよ。
 その人がその人の人生をどんな角度から組み立てているのかということだけがわれわれにとって、もはや、関心ごとの的として残っているだけだと思う。

 それが、なにゆえに子どもだけに、人生修養みたいなことを強いて、それを教育だというふうに思うのか。そこは、考えてみる課題だと思いますね。

 (一つの物語でも。小・中・高、大のときに読んだとき、それぞれ感じ方がちがうということに関して)

 それは、ものの見方の仕組が、変わってきたということです。感動する仕組の構造が変わってきたということなんです。
 だから、その構造を変えてやることが必要なんです。作品のテーマなんかをいくら強調したって、子どものイメージには、先生は、あの作品をたいへんほめたということしか残らない。
 そして。そののち、『ああ、先生の感動したことは、こんなことだったんだ!』と気がついたときは、それは、その仕組がわかったというときなんですよ。


金城
 われわれが映画を作っているときに、いい手が見つかったということだとか、テクニックにこんなのを使うということは、実は、たいへんなことなんですね。ある一つの見方ですものね。それは何気なくやられているね。


上原
 ・・・・何気なくやられていることが、子どもには、実は、一生、一番残るものなのですよ。

金城
 僕は、さっき、簡単にテクニックといったけど。むしろ、それがたいせつなんですね。

上原
 そう。むしろ、そちらのほうを主にしたドラマが、今の世に生まれなければ、いけないと思うな。

 ・・・・・われわれは、こういう盲点を持っていると思う。内容と形式を分けて考えるとき、形式は内容の容器でしかないという悪いくせを持っているんですよ。

 形式こそ智恵なんでね。

 実は、それは容器(いれもの)でも、なんでもなくって、最も、生(なま)の智恵だと思うんだ。内容を問題にするってことは。その智恵を問題にしているんでね。


金城
 形式をかるく見るみたいなところが、むしろ、たいへんだいじなことなんだ。さっきの’華麗なる賭け’のテクニックは、東宝映画の中ですぐ使われているんです。目先のきいたこととして。そこに現代人の感覚にピタッときたものが、あったわけでしよ。


上原
 ・・・・・だいじなことですね。われわれがものを考えるとき、小さいときに、オレはいまあの映画で見た、あの小説で読んだ形式でものを考え、捉えているという記憶がたくさんあったと思うのです。

 ・・・・・あるでしょ。自分に出てくる。それは影響しているんじやありませんか。だから、そちらの方が教育というのはたいせつなのではないかと言うんです。


金城
 僕が、さっき言った″手″とか’テクニック’や形式は、一つの目として考えれば、そこに新しい見方が出てくるのでしょう。すると違った角度から見たり考えたりすることができるでしょう。
 ということは、内容が豊富になるということですね。

 一つのパターンでしか、物が見られなくなっているというのは悲しいですよね。


上原
 ・・・・・だから、それを改変する仕事がおとなの仕事だと考えねばいけないって言っているのです。

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金城さんがさいごにいっている
「一つのパターンでしか、物が見られなくなっているというのは悲しいですよね。」
ですが、今の世の中はネットなどで多様な考え方の情報があふれている割には。なぜか物の見方は、一つのパターンでしかみようとしなくなっているように思うんですよね。

ちょっとでも違うパターンは激しく拒絶する傾向が強い人がどんどんふえているような・・・。

この対話部分には
「教育的であるということは、内容ではなく形式である!!」
という見出しがついているわけですが、獲得している形式が貧弱なのは、教師が示した通りに受け止め、テストなどで再生できるかどうかばかりの日々を幼少期から送っている、という影響も強くあるのかもしれませんね。


参考 同じ義務教育といっても、小学校段階は中学校とは全然違う、ということに言及している言葉を個人ブログでも紹介しています。

上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー12
小学校教育 と 中学校以降の教育の違い
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12846475984.html

「対談 上原輝男 × 金城哲夫(ウルトラマン作者)④ 「新しいタイプのものの捉え方が生まれつつある」

伝えたいテーマに対しての「描き方」「場面後世の仕方」というのは、そのまま「教育目標」に対しての「授業構成」「日々の積み重ね方」と置き換えて読んでみてください。

そうすると、この部分も昨日と同様に作家の立場の話であっても、教育(授業)の基本そのものと思います。
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上原
 ・・・・簡単に言うと、子どもに桃太郎の本を見せるときわめて初歩的な段階では一場面一場面としてしかとれないわけですよ、「ももから生まれた……」とね。それが、どんどん大きくなるのが次に出てくる。ところが、いま、要求されていることは、場面ごとにパンチがきいていて強烈でなくてはならない。と言うことは、次の場面と切り離されていることが、子どもに受けがいいということなんでしょう。全体の中の部分、部分と集合としての全体を子どもは、どこかで習得するわけでしょう。その関係のしあいを、いまは、問題としている。そうなると、その辺に秘密がある。

 ・・・それは、私流に言えば、二つの問題があって、継続型の方をとるのと、意外性の方をとるのとある。

 しかし継続を拒否する型をとるものも、拒否されながら、どこかで完結されなければならない。そんな宿命を持っているのですよ。テレビにしたって漫画にしたって、完結はしなければならないんだから。

 形式的に言うと、昔よく言われた起承転結ね。それは、もはや、子どもにとってだめなものか。そして金城さんは、新しい作品を作るとき。その形ではなく、別な新しい場面のっかまえ方、たとえば、部分と全体との関係のしかたを、起承転結ではない新しいバターンを考えつつあるんではないかというふうに、金城さんあたりは考えているのではないか。
 この点をいま少し知りたい気がするんですよ。

(略)

 私は浸画家の才能と言うのはテーマなり、内容的なものをどう配分するかというのではなく、新しい形式を見つけることだと思う。さっき言った起承転結とはちがった、転々承々か何か知らないけれど、何か他のパターンを見つけることであり、そうしたときにこそ内容が盛り込めたというのだと思う。それを期待したいんです。

 テンポが早くパンチがきくのを子どもが好むというのは、何かものの見方の一つの型をそこで習得したことだと僕は思っている。いままでストーリー性しかなかったのが、別の見方ができはじめたと考えたいんだ。だから、次の手がうてるのであれば、漫画やパンチのきいたものを与えるのも教育的に見て決してかまわないと思う。人間の新しいものの見方ということにおいてね………

 この雑誌を始めたのもそのような考え方があったからなのです。空間とか時間というんだって、これは人間がつかまえたわれわれの世界の構造を、時間空間というとらえ方をどこかで覚えてきたわけでしょう。

 だから、この時間空間を更に寸断するとか、あるいは、新しく組みたてるという方法を、われわれ新しい人間はつかまえていかなくてはならない。だから、もはや、物語内容にヒューマニズムがあるとか主題がどうであるかという問題は、陳腐でしかない。むしろ、それは、非教育的な内容しかないというようなこと問題でないと思う。もっとたいせっなものがあると思う。

 たとえば、子どもに修身の教科書の内容をどんどん入れれば子どもは、すばらしくなるかというと、決してなりはしない。それよりも、ものの見方という新しいパターンを創造していくことのほうが、新しい人間を作りあげる上でたいせつなのではないだろうか、

 ・・・・たとえば、九時ちょうどに人間が殺されるというドラマがあるとする。あと十分ある。しかしテレビでは時間制約のために場面転換が行なわれている。そのようなときに、どんなテクニックを使うかが聞きたいのです。

 そのテクニックを示すということは、そのようなものの見方を指導していることと同じであると考えるのです。それが子どもの能力とかけ離れていれば、子どもはそこに不可解を感ずる。それは絶えず苦方していることでしょう。

金城
 そうですね。ただ僕はそのように理論付けで行なっているのではなく、勘でやる。だから、どこかでそれをやっているとは思うのですが、それを意図しているわけではない。あんまり。

上原
 そう。子どもが喜べばいい………それは、わかる。われわれの知りたいのは、子どもが喜んだのは、作者が何をやり、どんな仕組をしたから喜んだのか、だとか、子どもが作りあげようとする構造と作者が考えていた作品の構造とがどこかでピタリとあったんだ、そんなふうに思い、その分析をやりたいのです。また、しなけれれぱならない仕事だと思う。

******************************:
この対談からずっと後、先生の主宰していた児童の言語生態研究会の雑誌15号のテーマは「子どもにとっての時間と空間」でした。
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/journals/JidouGengoSeitaiKenkyu/i/15

それがどうして教育の根本問題となりうるのか、という先生の言葉を個人ブログの方でもとりあげています。

上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー14 「生き方」の指導


「起承転結」というのは物語展開の基本形のひとつですが、これは中国の漢詩の型ですよね。
日本の芸能だと能楽の「序破急」という型があります。
教師が授業の展開を考えるときにもどちらかを基本形として考えていらっしゃると思います。

その型のスタイルをどうするのが効果的なのか、と考えることが、まずこの対談での内容と重なる部分。



でも、「部分と全体」という視点からは、もっと教育の根源に関わることがつながっています。

時折行われるテストで子ども達が点数をとれる、それで先生や親にほめられる、友達に対して優越感を得られる、という構図は、そのまま教師とか、学校とか、市町村レベルでも変わらないですよね。全国都道府県の中で学力テストの平均点がトップになったとか、そういうことで一喜一憂していますから。

その時その時に評価されたことで喜んだり悲しんだりするのは、人間の本性でもあるのでしょう。
だからそのこと自体はきっとずっとこのままですよね。

ただ、問題にしなければならないのは、それが「子供の成長」「みんなにとって生き生きと暮らせる社会の形成」という大きな流れと、あまりに解離・分断されてしまっているということです。本末転倒になってしまっているように思うんです。

家庭教師をしていて、特に中学校・高等学校の中間テスト・期末テストで多かったのが、ふだん使っている問題集やプリントと、ほとんど同じ問題を出題することが非常に多かったこと。極端な場合は、数学で教科書の章末問題を完全にそのまま出題する中学3年生の先生がいらしたこと。その学校の生徒は解法の途中を書く欄のない解答欄に、暗記していた数字などだけを書けばいい。だから学年の平均点は95点前後でした。でも、学力テストや模擬試験だと県の平均をうんと下回る・・・当然ですよね。

まあ、それは極端な例ですが、あれほど入試ではカンニングや問題漏洩がニュースとなり批判されるのに、どうしてこういうことは堂々と行われているのだろうと不思議に思います。

そりゃ「普段から授業をきちんと受けて、課題をこなしている生徒がむくわれるように」という配慮からのことだという意図も分かりますが、それによって、解き方を覚えている問題ならニッコリ笑って解けるけど、ちょっとでも変えられたら全く歯がたたない・・・というのでは、本当に教育といえるのか???

確かに、点数ばかりで先生や学校を評価し、厳しく注文をすけてくる上かや世間からの圧力は、尋常でない場合もあります。そういう地域などの先生方は、自分達の身を守る為に、そうするしかないのでしょう。

でも、そうすることによって、肝心の子ども達の生きる力は確実に未発達になりますよね。
場面場面のパンチのある描写しかない作品が、一時的に人気作になってもすぐに飽きられて忘れ去られるのと同じです。
一発芸で大流行した芸人さんで、あっというまに消えていった人達などもそうですよね。

そのあたりの問題が、今回載せた先生の最後の言葉にあらわれていると思います。


上原
 そう。子どもが喜べばいい………それは、わかる。われわれの知りたいのは、子どもが喜んだのは、作者が何をやり、どんな仕組をしたから喜んだのか、だとか、子どもが作りあげようとする構造と作者が考えていた作品の構造とがどこかでピタリとあったんだ、そんなふうに思い、その分析をやりたいのです。また、しなけれれぱならない仕事だと思う。

プロフィール

HN:
上原輝男記念会
性別:
非公開
自己紹介:
本会は、上原輝男の功績を顕彰し、民俗学・国語教育学の発展に寄与する研究と交流を目的として設立されました。

ここでは上原先生が探求された事柄を、広く一般の方々にも知って頂くために、先生のあらゆる分野の語録を紹介しています。

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