「忘れ水物語」 追い書き
いざ出版するとなると、この作品の性根のようなものからいって、そうすることが適当であるのかどうか迷ってしまう。
深くて長い。それでいて、明暗の分かたれぬ以前の薄明と沈闇の、未発の状態でいることが。いまだに正しいように思えてしまう。
原爆のことを書こうと思ったのは、その傷跡がまだ傷跡とも固まらぬ頃であった。正しくは、書こうなどという意志からよりも、興奮のうわごとを書きつけていたというべきであった。
そして、その頃、二つの作品を見て、以後、私は筆を折った。
映画”原爆の子”と、丸木夫妻の”原爆の図”であった。
世評はいずれも大反響があったが、私は、映画では身震いするほどの嫌悪感を抱き、絵画の前には不思議に素直になれた。人間が破壊されているのに、破壊されない人間が、破壊された扮装をすることに憤りさえ思ったのを忘れない。これ以上の凌辱があるだろうかと思い。人間の愚かしさをつくづく思った。それに較べて、丸木氏が、木炭画を採択し、しかも赤ん坊だけは、無傷の儘に画かれたことに思わず息をのんだ。書かねぱならぬこと、後世に伝えねぱならぬことは、事実よりも、その事実に遭遇した人々の想念なのだ、と自覚させられた。ただし、そのような筆の持ち合わせが、私にあろうはずはなかった。
折しも、原民喜が、原爆はカタカナでなければ書けぬと言った。私はいまでも、名言であり、箴言だと思っている。
以後、馬齢を重ねて四十余年、その間、肺癌にも罹り、いくらか人間の業のようなものが見えてきたといったら、生命冥加を知らぬ奴めがと、またまた死神を刺激することになるであろうか。
しかし、人は、生まれ変わり死に変わりすることが、生命の存続であると知ったからには、書き残さねばならぬことは、その凄絶さではなかった。その修羅ぶりでもなかった。
そんな時、ふと、巻首に掲げた和歌が、その思いをまとめてくれたのである。
-別れぬるあしたの原の忘れ水
行くかたしらぬわがこころかなー
木作品が、自伝的であり、私小説ふうたのは、決して意図したことではない。ただ、思いに従うことによってのみ、別れても、別れ離れることのない昨日があしたに続いていることに気付かせられたことによる。
忘れても忘れ得ざるわがこころの秘めごとを、私は素直に書き綴ればよいのだ、と思った。それは一口に言って、幼な心に通う。なぜ、人は子守り唄を唄って、幼な子を寝かしつけるのであろう。なぜ、その眠らせ歌が子守りであるのか。子守り唄には時代かない。また、場所も特定ではない。むしろ時間を捨て、特定場所から遊離することによって。幼な子は夢の中に安らぎを得ることを、人は承知しているにちがいない。
八月六日、午前八時十五分、私は、広島駅頭に在った。しかし、その時、その場所を、私の知覚は見失った。意識を失ったわけではない。一瞬のうちに、人を包んでいる環境が様変わりするとどうなるか、人は立っている位置すらが分からない。いつ、どこで、何を、のすべてが断絶されて。ここを確定することが出釆ない。建物は建っていて普通であり、戸外であれば、人は歩いていて普通だのに、その普通がなかった。また、爆撃なら、爆撃による破康の過程を見て、人はそう認融し、人の死傷も、傷つき倒れる過程を見て、悲惨の情が喚起されるのに、その過程がなかった。私が習い憶えた知覚の中には、その光景を読み解く能力はなかった。
この時、私は助けを呼ぶ声を耳にしていない。なぜか。被害の意識が持てるのは、非被害部分を見出した者だけに限られる。
人は、ただ、うめき、泣いた。いや、ただうめき泣いている物が、どうにか、人であった。
修羅の巷に、焼け爛れ、腐乱した五体を遺棄して、魂は既に拉致されていた。遠い遥かな妣の国に旅立ちしたかのように、在りし日の記憶が、求めもしないのによみがえった。
ひょっとすると、死神の招きにあっているからこうなのではないかと思わぬでもなかった。しかし、そんな思いよりも、次々とあらわれる在りし日の在りし姿の方が、私を魅きつけて離さなかった。
いまでも思う。あの最中、私は左手の甲の異様に膨れ上がったのを、焼けなかった方の右手の平で押しつけ、膿汁をしぽり出していた。そのことを、全く平然と無感動に行い得たのは、ひたすらに妄想の中にあったからではなかっただろうか。現代人は、それを妄想という。しかし、私たち先祖の人々は、それをよみがえりと言った。よみがえりを死からの蘇生などというのは、現代人の錯誤である。よみがえりとは、果たして過去の記憶の再生をいう言葉であるかどうかを、私は疑う。私にとって、決してそれは妄想ではなかった。また断じて過去ではなかった。もし、魂という言葉が使えるならぱ、魂それ自体に働きがあって、未生に帰る作用のあるのを、よみがえりと人は曾ってそう実感していたのにちがいない。
私はひたすらに、懐郷心にかられていた。人がかく生きたということは、この懐郷心からの遠ざかりをいうのであろうか。人の生命には終焉がある。その終焉があるから、刀折れ矢尽きるが如き生き方を人はかく生きたというのであろうか。その終焉の折に、人は振り返って思う過去の時間が人生だとしたら、あのひたすらな限りない懐那心は一体何であるのか。たとえ、それが死に近い生命体の末期現象だと言われようとも、私にとって、あれは、決して終焉どころか始まりであった気がする。
原子爆弾とは誰が名付けたのか、私は知らない。私だけがではない。原子とは何かを説明出来る人は、専門家以外、そう多いとも思えない。私は音の似通いからばかりではなく、原子に原始を思ってしまう。原子爆弾は、人間を原始に返してしまう爆弾であった。それは人間にとって瞋恚と悔恨との咒符にはちがいないが、それ以上に、逃がれられぬ咒詛の中にしか生きられないことを思わせられた。
昭和六十二年原爆の日を前に
上原輝男
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