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上原輝男記念会 上原先生著書からの語録

「上原輝男記念会 上原先生語録集」では元玉川大学教授、上原輝男(文学博士 専攻 心意伝承学)の語録を紹介しています。 非常に多岐に渡っていますが、先生が生涯をかけて探求された、この風土、歴史、文化に根付いた<日本人>ということですべては繋がっています。 多様な価値観によってふだんの生活も国際社会での関りも難しさをます現代社会において、先生の語録は大きなヒントになると考えています。

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「国語の授業はこうする 用具言語編」  (ツイッター上原語録014補足)

第一部 国語学習の目的と態度 
五 言語作業補説
7、他教科教科書を読むことも国語科のうち
より
(P.43)
 私は国語科に『構え』の指導を導入すべきことを早くから提唱して来た(前巻「小学校の国語の授業はこうする―感情・思考・構え編」参照)。ここでの論旨の記号体系への指針と導入に則していうなら、『文体』の認識である。
 文体とは何かを教えよというのではない。われわれは、物の見方が改まる時、ことばが変わる習性を持っている。これは、成人したから気がつくのではない。物の言い方や修辞は補助手段ではない。物の見方(観点)、対処の仕方(対応姿勢)、世界定め(全体把握のありよう)によって、ことばは即応する。

*以下M・M 記述
「構え」というのは上原先生や児言態の教育観を考える上で非常に大きな意味を持つキーワードであるのですが、なかなか簡潔に説明することは難しいです。

基本的にはこの抜粋部分の最後 
『物の見方(観点)、対処の仕方(対応姿勢)、世界定め(全体把握のありよう)』
と深い部分で直結することからくる「生きる姿勢」というようなことなのですが、この中にある「世界定め」というのも(元は江戸時代の歌舞伎の世界で使われていた発想なんだそうですが)簡単には説明できない・・・でも重要なキーワードです。

☆世界定めに関連する児言態の研究報告が特集されているのは、
 雑誌『児童の言語生態研究』15号 (1996年)
  特集「子どもにとっての時間と空間」
です。
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(ツイッター上原語録013補足)

みなさん、発想をもっと根本的にして下さい。そのひとつは言語観ですよ。我々は生態のひとつとしてことばを捉えてきたんだろ。今の学校が堕落してしまったのは、ことばをことばとして捉えてしまっているからだよ。 

そうして専門性が失われてしまっているから、世間のみんなが教育に目を光らせている。権威も失っているんです。・・・歴史上いちばんひどい時代じゃないのかな。(平成
7年新年会)

「小学校の国語かくあるべき -現代国語教育の盲点と批判-」  (ツイッター上原語録012補足)

P20 今日の国語教育が言語生活や言語活動の指導であらねばならぬという意味は、英会話を習って日常生活の用が足せるようにしてやるということと同じではなかった。

言語生活と殊更に言う内容は、われわれが(大人も子どもも含めて)ことばと向き合う自分、あるいは自分にまつわりついて来ることばを処理しなければならない生活を思うからである。また思わなければならないように仕組まれているのが、人間の一生ではないか。

「小学校の国語かくあるべき -現代国語教育の盲点と批判-」  (ツイッター上原語録011補足)

「一 現場及び家庭の盲点」P23より
 ことばの習得とか、ことばの勉強とか簡単に言うけれども、こどもの精神発達と無関係にはことばは習得されない。筆者が考えたいことは、こうして心境をまとめ上げて行く発達経路と、その順当性である。ことばは、心象・心意・心境と別に習得のされようがない。それに、この心象・心意’心境は、昨日までのそれと無縁たり得ない。仮りに、先の″そうかもしれない″が、中間的心境の発見だとしても、それに至る経過において、それがなされたと考えるべきであった。


*以下M・M 記述
この章では冒頭に遠藤周作氏の「狐狸庵閑話③ 近頃の子ども」が引用されています。息子を連れての外出先などでのエピソードを紹介し、「近ごろの子どもはほんとうに手におえぬ。どう教育したらよいのか。」と結ばれています。

先生はこの発言が学校での国語教育とは無縁の発言であることを指摘しています。「もし本当にどう教育したらよいのかわからぬのであったら、どうして学校の国語教育担当者に訊ねてみようとしないのだろう。と・・・」

かと言って本当に学校の教師に訊ねよというのでもありません。そんなことを訊ねられても学校の国語専門という先生がきちんと回答できないだろうということは分かった上での発言です。

なのでこのあとには次のような記述が続きます。

「ここで、手におえぬとされた内容は、国語担当者が扱わなければならない仕事の、最も中心に据えられて然るべき対象であると思うからである。」

「世の中から小学校国語教育担当者は完全に忘れ去られている。」

「小学校国語の対象は、この遠藤氏が どう教育したらよいか とする対象とは別だとする時である。だがこの論のある限り、小学校国語教育を甘くしてしまって、人間の意識からは遠い、あってもなくてもというような方向へ追いやってしまうのではないだろうか」

 先生はよく「日常から離れてはいけない」「生活感情を扱ってやる」ということを強調されていました。感情教育でも「屈折感情」などというようなものが学校で扱われないことも問題視されていました。子ども達にとって本当に授業で扱ってほしいものほど扱われていないと。

そんな先生が他界されて数十年・・・成果主義だの競争原理だのでますます「得点力」が学校教育の究極の目標であるかのような風潮になっていて、ますますこうした内容はおざなりになっているようです。

☆余談ですが、今季(平成30年1月スタート)放送のアニメの中に「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」というのがあります。主人公はアンドロイドのようなのですが、人間の言葉にまつわる複雑な事柄が理解できずに周囲とぶつかり悩む場面が多々あります。このアニメほど極端でないにせよ、子どもたちは日々言葉のやりとりで理解不能な場面に遭遇していて・・・でもそれに対して親も先生もきちんと対応してくれない・・・そんな思いで過ごしている・・・。

こうした事柄は「こうすればいい」というきちんとしたマニュアルがないだけにやっかいだし、だからこそテスト問題の対象にもならないから教育現場では度外視されてしまうわけですが・・・そういった疑問を正面から受け止める姿勢を小学校の先生は持たなければならない・・・こうしたアニメが制作される裏側にはそんな世の中の(かすかな?)期待がもしかしたらあるのかもしれません。

「小学校の国語かくあるべき -現代国語教育の盲点と批判-」 序より (ツイッター上原語録010補足)

「序」からの抜粋です。原文で太字になっているところは太字にしました。

国語の授業をうまくやることに疑いを持つ。われわれは子どもたちに学校ごっこをやる時の見本として示しているのではない。国語の力は、自己と対話する時以外は伸びてはいないものである。子どもたちを観客的位置に据えての興味や関心を募らせることは、既にわき道に連れ出してしまっている。
 更に思えば、本書出版の遠因は、私自身の小学校一年生入学当初にさかのぽることができる気さえする。
 私たちは、初めてのサイタサイタサクラガサイタの色刷り読本使用者である。ハナ、ハ卜、マメ、マスの黒ずんだ印象から、突然まぶしいほどの明るいはなやかさは、兄、姉たちに、子ども心にしても自慢した記憶がある。それは色彩から来る何かもあったろうが、その文章によって得た何かがあったはずである(勿論このことを、その時思ったわけではない)。その当時は先生がこの教科書によって何をどう教えられたか何も覚えていない。だが、いま思うことは、このサイタサイタサクラガサイタという五行十三字で、明るさを思い、はなやかさ、新鮮さが思えるという不思議さ―私は、小さい者へ、小学校の国語をそっとお前自身のものだよといって返してやり度い。そしてお前自身の感情なり思考なりの生い立ちとともに、国語を見守り度いと思うのである。
 本書では、文部省学習指導要領-並びに、それに準拠する教科書や学習指導書をかなり手きびしく批判した。しかし、これは、学習指導要領を軽視しようとするものではなく、また教科書や学習指導書を疎んずるものでもない。これらのものは、時代とともにそれが変貌することを知っているからである。』


冒頭から太字で「国語の授業をうまくやることに疑いを持つ。」とありますが、もちろんこれは先生が授業の展開を軽視していたわけではありません。

以下、私(M・M)の思い出からの意見ですが、先生は大学時代の講義でも児言態の会合でも「上手に授業をやろうと思うな」ということを繰り返し強調されていました。

それよりも何故その授業を行うのかという、指導案でいえば単元設定の理由についての部分・・・それがきちんと定まれば授業のやり方は自然に整ってくるというようなことです。

実際に多くの現場では「得点力をあげるためにどう教えるか」ということに追われて、国語に限らず学校のカリキュラムがどう一人の人間の成長にかかわるのかを本気で考えようとしないで授業が行われているのが実情だと思います。

研究授業などの時には指導案を作成しなければならないから形式的に「単元設定の理由」を書くものの、場合によっては「教科書の教師用指導書を丸写しすればいいんだ」ということも横行しています。

児言態に入会し、合宿での研究授業の指導案作成は、そういった現場とは真逆でした。

作文分析などで児童の意識構造を浮き彫りにする作業から始まって、テーマの絞り込みにいたるまで数日間をかけてとことん話し合いがなされました。

そのようにして「単元設定の理由」を練り上げてから、やっと「本時の展開」になるわけですが多くの場合、それは夜中の0時をこえてやっと着手。指導案が完成するのは研究授業を行う当日の夜明け頃でした。

「そのような単元設定のための膨大な検討時間など確保できない」という実情もありましょうが、時にはそういったことをとことん突き詰めてみる・・・日常の授業に際しても日ごろから教育の本質も忘れない意識をもって子どもたちに接しているのか、という姿勢を忘れないことは可能だと思います。

プロフィール

HN:
上原輝男記念会
性別:
非公開
自己紹介:
本会は、上原輝男の功績を顕彰し、民俗学・国語教育学の発展に寄与する研究と交流を目的として設立されました。

ここでは上原先生が探求された事柄を、広く一般の方々にも知って頂くために、先生のあらゆる分野の語録を紹介しています。

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