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上原輝男記念会 上原先生著書からの語録

「上原輝男記念会 上原先生語録集」では元玉川大学教授、上原輝男(文学博士 専攻 心意伝承学)の語録を紹介しています。 非常に多岐に渡っていますが、先生が生涯をかけて探求された、この風土、歴史、文化に根付いた<日本人>ということですべては繋がっています。 多様な価値観によってふだんの生活も国際社会での関りも難しさをます現代社会において、先生の語録は大きなヒントになると考えています。

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「対談 上原輝男 × 金城哲夫(ウルトラマン作者)⑤ 「教育的であるということは、内容ではなく形式である!!」

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上原
 たとえばね。善をすすめなければいけないと一全懸命になっている子どもがいるとするでしょう。すると、このときに、悪をにくむわけですよ。しかし、善と悪との二つを考えるようになってくるでしょう。そうすると、いままで、一つの見方でしか見られなかったことが、二つの見方ができるようになる。

 だから、やっぱり、人間のものの見方がどんどん変革されてくれば、それは(人間性が高まるということが)できてくることだと思う。
 さっきの映画の話にしても年寄の方は、映画の場面がとらえられなかった。子どものほうは。そのしくみを見てとった。そこに写されているものは、人間生活でしょう。
 そのしくみがどうなっているかがわからない方の人間の人問性が高いと言えるか、それよりも、しくみがわかるほうが、人間性がわかっていける可能性をずうっともっているって言えないでしょうか。

・・・・・あるおとなが人格の高い人から、ためになる話を聞かされたとするでしょう、このとき、子どものとき、だれかの話を聞いて感激したという感激の仕方を再ぴするかというと、もはやしません。
 ただ、その人の言っている立場とか話の内容が、どういうふうにして、その人においてしくまれてきたかという、そんなことだけを感心しますよ。
 その人がその人の人生をどんな角度から組み立てているのかということだけがわれわれにとって、もはや、関心ごとの的として残っているだけだと思う。

 それが、なにゆえに子どもだけに、人生修養みたいなことを強いて、それを教育だというふうに思うのか。そこは、考えてみる課題だと思いますね。

 (一つの物語でも。小・中・高、大のときに読んだとき、それぞれ感じ方がちがうということに関して)

 それは、ものの見方の仕組が、変わってきたということです。感動する仕組の構造が変わってきたということなんです。
 だから、その構造を変えてやることが必要なんです。作品のテーマなんかをいくら強調したって、子どものイメージには、先生は、あの作品をたいへんほめたということしか残らない。
 そして。そののち、『ああ、先生の感動したことは、こんなことだったんだ!』と気がついたときは、それは、その仕組がわかったというときなんですよ。


金城
 われわれが映画を作っているときに、いい手が見つかったということだとか、テクニックにこんなのを使うということは、実は、たいへんなことなんですね。ある一つの見方ですものね。それは何気なくやられているね。


上原
 ・・・・何気なくやられていることが、子どもには、実は、一生、一番残るものなのですよ。

金城
 僕は、さっき、簡単にテクニックといったけど。むしろ、それがたいせつなんですね。

上原
 そう。むしろ、そちらのほうを主にしたドラマが、今の世に生まれなければ、いけないと思うな。

 ・・・・・われわれは、こういう盲点を持っていると思う。内容と形式を分けて考えるとき、形式は内容の容器でしかないという悪いくせを持っているんですよ。

 形式こそ智恵なんでね。

 実は、それは容器(いれもの)でも、なんでもなくって、最も、生(なま)の智恵だと思うんだ。内容を問題にするってことは。その智恵を問題にしているんでね。


金城
 形式をかるく見るみたいなところが、むしろ、たいへんだいじなことなんだ。さっきの’華麗なる賭け’のテクニックは、東宝映画の中ですぐ使われているんです。目先のきいたこととして。そこに現代人の感覚にピタッときたものが、あったわけでしよ。


上原
 ・・・・・だいじなことですね。われわれがものを考えるとき、小さいときに、オレはいまあの映画で見た、あの小説で読んだ形式でものを考え、捉えているという記憶がたくさんあったと思うのです。

 ・・・・・あるでしょ。自分に出てくる。それは影響しているんじやありませんか。だから、そちらの方が教育というのはたいせつなのではないかと言うんです。


金城
 僕が、さっき言った″手″とか’テクニック’や形式は、一つの目として考えれば、そこに新しい見方が出てくるのでしょう。すると違った角度から見たり考えたりすることができるでしょう。
 ということは、内容が豊富になるということですね。

 一つのパターンでしか、物が見られなくなっているというのは悲しいですよね。


上原
 ・・・・・だから、それを改変する仕事がおとなの仕事だと考えねばいけないって言っているのです。

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金城さんがさいごにいっている
「一つのパターンでしか、物が見られなくなっているというのは悲しいですよね。」
ですが、今の世の中はネットなどで多様な考え方の情報があふれている割には。なぜか物の見方は、一つのパターンでしかみようとしなくなっているように思うんですよね。

ちょっとでも違うパターンは激しく拒絶する傾向が強い人がどんどんふえているような・・・。

この対話部分には
「教育的であるということは、内容ではなく形式である!!」
という見出しがついているわけですが、獲得している形式が貧弱なのは、教師が示した通りに受け止め、テストなどで再生できるかどうかばかりの日々を幼少期から送っている、という影響も強くあるのかもしれませんね。


参考 同じ義務教育といっても、小学校段階は中学校とは全然違う、ということに言及している言葉を個人ブログでも紹介しています。

上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー12
小学校教育 と 中学校以降の教育の違い
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12846475984.html
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心に響く小学校カリキュラム

心に響く小学校カリキュラム
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感情教育論 昭和58年 学陽書房

小学校のカリキュラムは知的になりすぎている。小学生が学びたいのは知的対象としての言語ではなく心の使い方である。人の子が人としてたち交わるための心の向け方配り方を求めている。これが年齢層に時ところをわきまえた対応体ができるのを世間に期待しているのである。またそれを誰よりも喜び安心するのはその子の親なのである。 p77
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個人ブログで、絵本やアニメの教育力についてとりあげてきています。
今朝の更新で、寄せて頂いたコメントに基づきながら、そのことについて再度触れています。

この感情教育論の言葉も、そうしたことと密接に関わっている内容です。

昭和58年の段階で先生がこうした指摘をされていた・・・でも学校教育はますますテスト対策の名のもとに知的になり、社会の要請として現実対応のスキル教育の方向になり続けました。

そうした教育を受けた世代が、今社会人となってコミュニケーションで悩む、現実対応に苦慮して心身を病んでしまう・・・学校の先生自身がボロボロになってしまっています。

それでもこの状況を放置し続け、現実意識に突き進むのか・・・・小学校本来のことに立ち戻るのか・・・学校教育の存亡の大問題です!

参考
子供の時に影響をうけたもの②
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12845851153.html
学校の授業教材との決定的な違いについて考えてみました。

プロフィール

HN:
上原輝男記念会
性別:
非公開
自己紹介:
本会は、上原輝男の功績を顕彰し、民俗学・国語教育学の発展に寄与する研究と交流を目的として設立されました。

ここでは上原先生が探求された事柄を、広く一般の方々にも知って頂くために、先生のあらゆる分野の語録を紹介しています。

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