「国語」は単なる1教科ではありません。家庭などでの日常生活、学校生活そべてが「国語の学習」となります。
そして、幼い時ほど、コミュニケーションの道具とは違う観点での言葉の獲得が重要です。
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小学校の国語かくあるべき ~現代国語教育の盲点と批判~
昭和53年 学芸図書
今日の国語教育が言語生活や言語活動の指導であらねばならぬという意味は、英会話を習って日常生活の用が足せるようにしてやるということと同じではなかった。
言語生活と殊更に言う内容は、 われわれが(大人も子どもも含めて)ことばと向き合う自分、あるいは自分にまつわりついて来ることばを処理しなければならない生活を思うからである。また思わなければならないように仕組まれているのが、人間の一生ではないか。P20
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「言葉とはコミュニケーションの為のツールである」とうのが、先生のいう「英会話を習って・・・」の部分になります。
実際に現代社会は大人になってもこのコミュニケーションへの苦手意識は相当なものですね。
もっとも日本人は、いわゆる「社交的な言葉のやりとり」はあまり得意でなかった民族・・・場面によっては「黙る」ことを美徳として生活してきたという歴史があります。
だから昭和のある時期から急に西洋流に社交界での社交術のような・・・ある種演じるような・・・ことに転換しましょう、と言われてもなかなかそれが出来ない人の方が多かったと思います。
それでも無理に演じて若者が疲れ切ってしまったのが「ネアカとネクラ」以降のことだったのでしょうね。
いつか改めて詳しく紹介しますが、上原先生はこうしたことに関して「母国語は外国語とは全く違う」ということを様々な場で主張しています。
*参考
ワニワニHP 特集「コミュニケーション雑感」シリーズ
waniwani@olive.plala.or.jp
もうすぐ新学期でのあらたな学級経営がスタートする教職員のみなさんも多いと思います。
「出だしからビシッと躾けなければならない」「最初の数日間で決まる」
ということは昔から言われてきましたし、ある意味でそれはそうなのですが、「躾ける」という中身が問題です。
お互いに相手の言葉をきちんと聞き合う、頭ごなしにバカにしない、批判しない・・・という、最低限の礼儀・マナーを躾けることはとっても大事なことだと思います。その上で秩序ある「ナマ・本音」の出し方ができるという雰囲気のクラス作り。
ただ、中には「教師の指示通りにきちんと動く」「教師の期待することを察して言動をコントロールできる」というようにするのが躾だという考え方もあります。
特にそれが威圧的に行われる、あるいはクラス内でなかなか言う事をきかない子を見せしめのようにして、優越感を大半の子にうけつけて思い通りに動くようにさせる・・・それは、どんなに統制がとれているようにみえていても、人間として最も大切な心や生き様が未発達であるばかりか、屈折した感情をすべての子ども達に獲得させてしまうことになりかねないと、私は考えています。
家庭教師で学校嫌い・学校不信になった子ども達の中には、嫌いになったきっかけとして「習っていない漢字を使ったらものすごく怒られた」「自主学習ノートで、自分が好きなことを図鑑で調べて書いていったら、学校で教えていないことは勉強ではない、って叱られた」という子もそれなりにいました。
そういう先生方は、子ども達の成長に関わるすべてを、自分の授業だけで獲得するのだと思っているのでしょうかね???
☆昨日の記事に対してこのような感想がよせられました
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投薬という西洋の発想って成分を抽出してピンポイントで作用させる、乱暴な言い方をすると抗癌剤みたいに癌に効くけど、副作用として健康な細胞にも破壊を及ぼしてしまう。
現代の教科書を見ても抽出ばかりで同じことだと思います。
覚えているけど肝心な中身はよく分かっていない人は沢山いる。
これをやっておけば大丈夫という発想には落とし穴があるという事ですね。
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