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上原輝男記念会 上原先生著書からの語録

「上原輝男記念会 上原先生語録集」では元玉川大学教授、上原輝男(文学博士 専攻 心意伝承学)の語録を紹介しています。 非常に多岐に渡っていますが、先生が生涯をかけて探求された、この風土、歴史、文化に根付いた<日本人>ということですべては繋がっています。 多様な価値観によってふだんの生活も国際社会での関りも難しさをます現代社会において、先生の語録は大きなヒントになると考えています。

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人間の生き様 かぶき者&現代人

今日が上原輝男没後28年の命日、ということも意識しての特集です。

時には江戸幕府に反抗して処刑されまくった江戸時代の異端者「かぶき者」達と、平成7年当時の人々との生き様について言及しています。

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日本人の心をほどく かぶき十話   上原輝男著 主婦の友社

P5  はじめに ーいざやかぶかん 
 私は以前、『忘れ水物語』という作品を世に出した。これは、一般的にいえば私の原爆体験記なのだが、私はいわゆるルポルタージュを拒絶した姿勢を貫いた。そして、巻頭に「別れぬるあしたの原の忘れ水、行く方しらぬわが心かな」の古歌を掲げた。言いたいことは、広島の焦土に、黒い骸から浮遊した魂魄の行方を、またしても追いかけている無意識を捉えてみたかったのであった。・・・・・・・・

p6 
〈うき世は夢よ。消えてはいらぬ。とかひなふ、とけて。とかいの。

〈せめて言葉を。うらやかにの。今かへる我に。何の恨みぞ。

〈夢はへだてず。海山を。越えても見ゆる。よなよなに。

 これらの風潮を享楽主義とだけで片づけてよいものであろうか。そんなこと言うなら、現代の方が どれだけ無価値な享楽の怠惰性が蔓延しているかわからない。かぶき時代は決して怠惰ではない。怠惰どころか、かぶきという感情思考は、死線を超えた者が見たしたたかさが無うてはかなわぬ。怠けはこの世的でありすぎる。だからかぶき者は汚くない。

・・・当時横溢した生命力は徒らな放出を意味しない。憂き世から浮き世にの意は苦悩から軽佻への転換というのは、誤算的飛躍で、それならば、生きすぎたりやの実感が生まれ出る転機が不明である。現世より確信できる生命燃焼の傾斜自覚が、生きから意気、さらに粋へ、立てから反逆(たて)つく、更に伊達に振舞うの気風を作るのであって、先の世の下剋上は現実処理が先行しているだけに、比重は重いが、憂き世から浮き世へは、この世に比重を置かない決意と覚悟を認めなければならない、だからこそ、かぶき者という特異な生き方集団に献上された命名であったのである。

 戦後五十年、焦土と化した敗戦日本の憂き世の中から、あのとき、不死鳥のように立ち上がった我々の胸の中に画いたのは、今日只今のような日本人の在り方であったろうか。傾き、数寄等々、特異、別派の心情を、もう一度考えているわけではない。しかし、彼等はこの風土の中で、その力学のままに活きたことだけは確かであった。その無意識の行動伝承を集めて、私なりにふりほどいてみたのが本書である。
平成六年、旧明治節に雨の降る日  上原輝男

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江戸時代の異端者「かぶき者」は、当時風紀を乱す者としてかなり厳しい取り締まりを受けたようです。歌舞伎役者もそういう人達が舞台の上で演じていたということで「歌舞伎」も何度も禁止令が出された・・・大勢の人達が処刑もされたと。それでも自分達の生き様を貫いたのが「かぶき者」達だったということです。

今風にいえば「反社会的な行為をくりかえす若者達」ということになりましょうか。

ただ、当時のかぶき者たちと比べた時に、(平成7年当時でいう)現代人の生き様はどうなんだろうと、先生は疑問をなげかけているわけです。

先生も明言していますが、「反社会的行為」等々を容認しようとしているわけでは決してありません。
人間としての「生命の燃焼」・・・・それが生き様の根底にどれだけエネルギッシュに渦巻いているのか・・・それを問題にしているのだと受け止めています。

行動の是非は別として、幕末でも戦後の学生運動の時にも若者達がそれまでの大人たちが作り上げた世の中に対して声をあげ、すさまじいエネルギーを爆発させていたのは事実です。

かすかな記憶しかないのですが、確か七五三か何かで明治神宮に連れていかれた時だと思うのですが、原宿駅前でものすごい数の学生たちがデモ行進をしていました。なんだか分からないけどその雰囲気に圧倒された感覚は60年近くたった今でも覚えています。

令和の時代・・・先生は今の若者達をあちらの世界からどのようにみているでしょうね?????

☆重ねていいます・・・反社会的な行為を煽っているのでは決してありません。

*個人ブログの方でも、命日にちなんでの記事をアップしています
上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー23
「人格は個人ではなく家系」
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12847898627.html

*上原輝男記念会 資料集サイトでは、上原先生の命日にちなんで寄稿された4つの資料を今日(4月11日)の午前中には更新する予定です。是非そちらもご覧ください
http://jigentai.edo-jidai.com/
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"若"の思想

"若"の思想
きのうから「ちゅらさん」づいていますが、あの中で一番魂が若いのは「おばぁ」じゃないかと思っています。
年齢的には登場人物の中で最高齢ですけどね。

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感情教育論 昭和58年 学陽書房

"若"の思想――-序にかえて  より

折口学では、「一家系を先祖以来一人格と見て、其が常に休息の後また出て来る」という。つまり、「死は死でなく、生のための静止期間」をいい、生は蘇生であって、新生ではない。ということは、神意神霊(魂)の憑りつくことによって生命が復活するのである。日本語における「若返る」という語も、これで初めて納得がゆく。

 "若"は日本人にとって、根底的な生命存在観だといわねばならない。また具体的な教育の根本 もある。古来日本人にとって、"若"は人間の年齢区分でもなければ、また一定年 容詞でもなかったのである。"若"は"別(わけ)""湧(わく)"などと同じ動詞に想到すると先師の早くからの指摘がある。"若"は蘇生魂の別名とも、またそれに対する日本人の鋭敏な直観とい ってもよいものであった。

 最近、思うところがあって、なつメロから最新曲まで、数冊以上の流行歌謡集について、"若い。 という単語がどのように使用されているか調べてみた。

昭和一〇年の"二人は若い"、昭和一一年 の"愛の小窓"へ若き生命を散らすやら。昭和一二年の"青い背広で"へ若いぼくらの生命の泰 よ、といったぐあいにである。連想的にも、甘さ、青春、生命、新鮮、清純等の語が謳われて当然 と思えるのだが、最近の歌詞にはそれが見当らない。だいいち、"若い"、という語が姿を消している。若さの変貌であろうか。

・・・・・・・・・けがれを知らぬ新雪の、と謳いへ若い人生に幸あれかしと祈る瞼に 涙と愛唱した"新雪"は昭和一七年である。戦時下はへ若い血潮の予科練のと、血気 発想され、散り急ぐ桜花に響えられた。その功罪はいま問わぬとしても、これだけ歌や踊りに明け 今に、いずれにしろ、その歌詞を失うというのは、"若"の思想が衰弱し混迷し だけは確かであろう。

 たまたま見つけた昭四七年"瀬戸の花嫁"では、⋯⋯お嫁に行くの。若い とだれもが心配するけれど⋯⋯とある。

経済成長、高齢社会化という日本人初めての生活体験は、 若さの基準そのものを狂わせ始めているのかもしれない。年齢的なものはもとより、その内容に至 っては、求められ問われることがないのと、日々ますます非行少年、暴走族なる異名が壮んとなる こととは決して無関係ではない。

 まず、"若"の思想を求め直そう、そんな気持ちが働いて、上梓の機となったように思う。
昭和五七年師走 上原輝男

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現代人であっても、同じ生命を宿してこの世に生を受け、生きているわけですが・・・生きる活力はだいぶ弱っているように感じられますよね。案外若い世代よりも、還暦以降の年代の人の方がエネルギッシュに生きているようにみえることもあります。

もちろん介護施設などで弱り切った生活をしているお年寄りもいらっしゃる一方で、そうでない方々がいらっしゃるのもまた事実。
そうしたことの背景には、こうした「若」への意識の違いもあるかもです。

長寿という物理的な時間を問題にしているのではありません。
たとえば「若がえり」という言葉がありますが、肉体が若くなるというだけではなく、挫折回復力のようなエネルギーの回復もさすのだろうなと。むしろそっちの方が万人にとって大切なのかもですね。


上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー16
「いのちの力」
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12847032228.html

*ウマ娘をきっかけに競馬のことをちょっと知ったわけですが、今の教育って「大逃げ」タイプのことばかり強いているような感じですよね。
でも後半スタミナ切れを起こしてしまうこともある。

生命力とか若の問題って、こういうことからもいえますね。

「個人の心も伝承の流れの内」

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日本人の心をほどく かぶき十話   上原輝男著 主婦の友社

戦後の日本人は戦後の教育が間違ったか、徹底したのか、心は自分のものだというふうにみんな考えるようになってしまった。そして我が心は自分で自由にできるというふうに、自信過剰になってしまった。

 しかし、自分の心は自分の心でありながら、自由にできないのが本当ではないのだろうか。自分の心だという以前に、もう自分の心はつくられている。長い年月かかってつくられている。ただ、人間は歴史的な存在だから、その長い年月というのも、そういう意味で私が今言っているというふうに思われそうだが、もっと丁寧にいうと、どうも数代にわたってつくられると考えるべきではないだろうかと考えている。

 数代以上には及ばないのかという反論が出るかもわからないが、そこは人間の記憶の問題があるだろうというふうに考えられるので、数代にわたってつくられるというのがいいと思う。だから、決して人間の心は、古人が思うように自由自在につくっているなんて、とてもできない。こう考えているのが私の現段階での考え方である。

 別の言い方をすると、日本人は日本人なりの杖を持っていることになろうと思う。

・・・・・・こういうふうに、一つひとついい出したら切りがないが、日本人には日本人の心の偏向、偏りがあるということである。あるいは趣味といってもいい。好みがあるというおとである。こういう問題を歌舞伎を通してふりほどけたらと、考えている。
P10~

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「個人の・・・」ということばかりが主張され、学校教育も個々人の保護者や各お偉いさんたち、業界さんの方々からの「公教育」から大きく逸脱した無理難題にふりまわされていることで混迷を深める現代社会。

「伝承」などというと頭から「封建的だ!」と非難されそうですが、やはり「伝承」という「通性」を失ったら、良き社会の実現を担いつつ、自分らしく生きるという人間への成長はできないと思うんですよね。


1日からNHKで再放送がはじまった「ちゅらさん」
自分の夢を追いかけ、自由に生きようとする人達・・・でもやっぱり知らず知らずのうちに、大きな心の流れにのっかって生活している・・・・そんな生き様をユーモラスに・・・でも時としてホロリとさせられるように描いている素晴らしいドラマだと思います。

理屈抜きで楽しむことが最優先ですが、観終わったときに、上原先生が探求していた古来から「日本人の心」に伝承されてきたこともフトふりかえってみると、みなさん自身の生活もどんどん広がるのではないでしょうか。

まだずっと先の展開になりますが、ドラマの後半や、あるいは後に制作された続編シリーズなどは子育てが描かれるのですが「教育」の根源を問い続けている作品という観方もできます。


上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー15
「いのち」
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12846930691.html

*全編を通して「おばぁ」の語りの内容などは、まさに我々に対しての「教育」ともいえますけどね。
現実的には脚本の通りにしゃべっているだけではないか、と突っ込まれそうですが(笑)

でも、以前別のブログでとりあげたまさに「テレビ作家の教育力」といえます。

上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー9
「テレビ作家の教育力」
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12845368943.html

「対談 上原輝男 × 金城哲夫(ウルトラマン作者)① 「真の意外性とは予期されるもの」

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金城哲夫
 あの、意外性ってね、侯は、桃太郎の話だってものすごく意外性があると思うのです。でっかい桃が、どんぶらどんぶら流れて来るわけです。まずこれが意外性ですよ。でっけい桃だなと婆さんが、爺さんの帰って来るのを待って切って見た。中から赤ん坊がとび出した。これは猛烈な意外性ってわけですよ。

 鬼ケ島へ鬼征伐に行くでしよ。いぬ、さる、きじが家来っていうのもそうですよ。鬼退冶ですからね。ウルトラマンみたいなものですよ。これは。桃太郎というと一般化した話だと思うけど、よく考えてみると。


上原輝男
 ちっとも変わらないっていうことね。

……ところが僕なんかはね、実は意外ではないんだという考え方をしている。つまり、作られるべくして作られていった作品であって、川上から桃が流れて来るのも、驚かしてやれなんていうでまかせじゃなく、日本人にとって完全な意外性でなく、予期されるところの意外性なんだな。日本人の感覚にぴったりした意外性であるから、あの話は今日まで伝承されて来た。

 子どもにとって、完全な無縁性ならぱ、その作品は当たらない。わからないということになってしまう。期待される意外性でなくては、やっぱりダメなんだと思う。


1968年 昭和43年頃
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参考)「予期されるところの意外性」というようなことを、「的中性」と呼んでいたこともありました。

25日のブログ記事 心意伝承の解明が目的 ~芸能研究はあくまでも材料~
で心意伝承の探求があらゆる人達にとって有意義ということを書きました。

その理由の一端がこのやりとりにも表れています。
テレビ番組視聴者としての「子ども」ということでのやりとりですが、「大人」だってそうです。
テレビ番組に限らず、心に響く・・・というとうのことが起きるのは、無意識をふくめたそれぞれの人の中に、響き合う元になる共通する何かがあってこそなのだと。

だから完全な意外性を狙ってもダメということなんです。それは単なる身勝手になってしう。


ただ、現代社会は見た目の判断とか表面的な知識のレベルで自分にとって関係あるか、ないのかをビシッと即断してしまう傾向があります。
「味わう」ということをなかなかしない。

深い部分からの共感、共振・共鳴は「味わう」という感覚的な部分からわきあがってくるものです。

まだ「自分が自分が」と自説のみを主張して、他人の意見には一切耳をかさない
一方的に自説をまくしたてるマシンガントーク傾向のある人も共感以前に他人の意見に対して防壁をつくり、攻撃しますから、意中性も何もあったものではありません。

それで相手の意見を叩き潰せたら「勝った!」なんていう気持ちに浸る人達があふれていますが・・・それってやればやるほど孤立していくだけで、本当の幸福感は満たされないとおもうんですよね・・・。


今日の個人ブログは
上原輝男語録にみる古来日本人の感覚ー12 「幸せ」
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12846000023.html

真の幸せも、この内なる世界との関係があればこそ、という内容です。

日本人の二元論 両義性が感覚の基本 

たまたま昨日、山梨大学名誉教授であり、上原輝男記念会の専門委員でもある須貝千里先生と語り合える時間に恵まれました。
その中で盛んに先生から出ていたのが「二進法のもともとの発想」に関してでした。

そのこととつながりの深い文があったので紹介します
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「心意伝承の研究 芸能編」より
昭和62年1月16日 桜楓社

「うそはまことの骨、まことはうその皮」と喝破できむ江戸時代の感性は失われていなかったのかもしれぬ。 と実、陰と陽、表と裏、内と外、聖と俗、貴と賤、公と私、等々日本式の二元論は、何も、演劇改良の時期に思い ついたわけではない。もともと根強く日本人の心理深層に巣喰っていたものといわねばならない。たまたま、語句的言い慣わしに従って先の二元名辞を例示したが、これを次のように整理し直してみると、

虚ー実
| |
陰ー陽
| |
裏ー表
| |
内ー外
| |
俗ー聖
| |
賤ー貴
| |
私ー公

の如くなり、その共通対応に意識の整合性を見出すことが容易である。

・・・・・・ハレの日の「客人 (まれびと)」がケの日には「乞食人(ほかいびと)」となる両義性が日本人の感覚には流れているといわねばならない。 簡単にいうと、歓迎され愛される神は、また忌避され追われる鬼である両義性を感覚の基本として具有していると との追求がしてみたいのである。(P230)


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デジタル思考・・・「0と1」からなる二進法・・・は現代人にはどのように受け止められているのでしょう。
きちんとした調査をしたわけではないですが、
「0と1の 二つしかない」 ・・・目に見える存在だけが存在 みえない世界などない かんがえたくない
「0か1か の二つにひとつ」・・・両極端な発想で、どちらかになる。極振りで間がない
という傾向が日々強まっているのではないでしょうか。

その一例が、好きな漫画でも音楽でもアニメでも「流しよみ」「早送り再生」をする傾向なのだと思います。
「その世界を味わい尽くす」のでなないんですよね。核心と思われる部分を知る事ができればいい。
それ以外は関係ないものとして切り捨てる、という発想です。

「抽象化」といえば聞こえはいいですが、本来「抽象化」は「具象化」とワンセットであり、一度あらゆる部分を切り捨てたからこそ、逆により幅広い具体的なこととつなげていける・・・「普遍化」につながっていくわけです。

それを学ぶというのが、義務教育段階での「数学」の大切な基本姿勢なのだと思います。
世界観の広げ方そのもの・・・ですから、数学は人間理解・古典や文革の世界を深く理解し、共振・共鳴していく上でも大切な素養になると考えているのです。

上原先生が中学年から論理思考、というのも単に理数教科が得意になるため、という現実的な利益から考えたわけではありません。個々人の抱いているイメージ・思い込み・まとわりついている感情 などから一度切り離して抽象化することで、爆発的に多くのこととのつながりがみえてくる・・・折口先生の大切にされた「類化性能」です。(みかけ上異なるものの裏側に関連を見出す能力のこと)


昨日、須貝先生が強調されていたのは、二進法は「0と1だけという世界観」ではなく「0と1で、あらゆる世界を表すことができる」さらには「形としてあらわせたものの、さらに向こう側には形にならない世界がある」という発想がもともとはあったんだということです。

それが仏教的にいえば「虚空の世界」。数学的にいえば「虚数」の世界ですね。どちらにも「虚」の字が入っているのが興味深いところです。



先の著書のことを、子供向けには

「あれか これか」ではなく「あれも これも」という発想をとらせるということだよ

というのも上原先生が月例会で話されていました。私の教室の全面にはこの言葉を掲示していました。

西洋的な合理的思考にそまった現代人の常識からすれば「相反する・矛盾するものが同時に存在」というのは奇異に感じるでしょうね。「どっちかでしょ、両方同時なんてありえなくね?」と。

でもそれを平気にやって昔から生活していたのが日本人の特徴です。
これは、それがいいか悪いかではなく、それが日本人の心の奥底にしみついている発想の仕方であり、生き方なんです。

それが表層的な部分だけは、急激に「矛盾は同時にはありえない。どちらかをはっきりさせなければならない」となってきたわけです。
「あいまいさは日本人の悪いクセだ」
「そんなわけのわからないことを言っていたら、西洋人と対等にやりとりができない。」

その結果「0と1」の間には無限の段階があるのに・・・二進法ではすべての数を表せるという広がりをもつのに・・・極端に抽象化しているからこそ、みえない世界も含めてあらゆる世界を内包しているのに・・・・それらすべてを切り捨ててしまっているのです。

だから
人の心についても表層的にしか考えない、その裏側を感じとれない、感じとろうともしない。
地位やお金のように目に見えるような物質的なものにしか価値を見いだせない
卑怯なろうなそんなのは気にしない 自分だけが得をするという結果を出せればいいんだ
・・・・・
そんなことで、他人を潰しながら、実は自分も他人から潰されるという生活を送っているんですよね。

「あれかこれか」ですから生き残るのはどちらか一方だけ
「あれももれも」なら共存共栄

今回は「虚」の部分には十分ふれられませんでしたが、本当はそのところこそが人間にとって大切な部分です。

*個人ブログ「たぬきの館」での今朝の上原先生の言葉は「絵本」に関してです。
仏の真理はことばや文字で表すことができない、という真言密教の観点などから絵本について語っています。
https://ameblo.jp/tanukidayo/entry-12845588308.html
あわせてお読みください。

プロフィール

HN:
上原輝男記念会
性別:
非公開
自己紹介:
本会は、上原輝男の功績を顕彰し、民俗学・国語教育学の発展に寄与する研究と交流を目的として設立されました。

ここでは上原先生が探求された事柄を、広く一般の方々にも知って頂くために、先生のあらゆる分野の語録を紹介しています。

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